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第一次訴訟の原告佐伯俊昭さん。(写真は一審判決直後)
佐伯さん_320

佐伯さんは、平成10年に喉頭腫瘍が発見され、腫瘍摘出のために声を失いました。
喉頭腫瘍とケロイドで原爆症認定申請をしましたが却下されました。
そして、集団訴訟に立ち上がりました。
平成18年5月12日、大阪地裁判決で認定相当と認められましたが、国は控訴。
地裁判決時には、病身ながらも厚労省(東京)に控訴断念の申し入れに行く元気がありました。
しかし、控訴審での2年間の審理のうちに、佐伯さんの体調は急激に悪化。
平成20年4月に認定基準が変わり、4月11日、ようやく佐伯さんに認定書が手渡されました。
しかし、そのとき佐伯さんは、病院の集中治療室、意識の薄れゆく状況でした。
私もその場面に立ち会いましたが、うれしさよりも、悲しみが大きかったです。
そして、認定書が渡された5日後の4月16日、佐伯さんは亡くなりました。
平成20年5月30日、大阪高裁判決でも佐伯さんは認定相当と認められました。
しかし、9名全員勝訴という喜びを共にすることはできませんでした。

佐伯さんの被爆体験をご紹介します。是非、全文を読んで下さい。
(陳述書より抜粋。全文は「続きを読む」から)

  突然、赤黄色の強烈な閃光が眼前を右から左へとザーッと突き抜けていきました。それは、当時写真のフラッシュとして使ったマグネシウムを焚いた時のような閃光でした。
  同時に、ものすごい熱さを感じました。
  慌てて逃げようとした瞬間、さらに、ものすごい轟音とともに、熱風が襲ってきました。
  2階建ての木造の校舎が、爆風で右から左へとなぎ倒されました。
  学校が爆撃を受けたのだ、と思いました。私は全身に大火傷を負っていましたが、そのことにも気づかず、無我夢中で、校舎の下敷きになった同級生を助け出し、避難場所である裏山(比治山)の暁部隊通信部へと避難しました。
  同級生も皆、私と同じ様に全身に大やけどを負い、皮膚がダラリと垂れ下がっていました。恐怖と混乱の中、皆は散り散りになってしまいました。
  私と一緒にいた同級生400名のうち4分の3が、この日から、学校が再開する10月までの間に亡くなりました。爆心地に近かった広島一中、二中の生徒は全滅でした。


 全文は↓(長いですが、お時間のあるときにゆっくり読んでみて下さい。)

   陳  述  書
             佐伯俊昭

1 被爆するまで
(1)私は、昭和8年1月24日、広島市内で生まれました。長兄、次兄、私、弟、妹の5人きょうだいでした。原爆が投下された昭和20年8月の時点では、長兄20歳、次兄18歳、私12歳、弟10歳。妹はまだ1歳にもなっていませんでした。
  父は警察官でした。私が小学校に上がる頃には警察署長をしていました。父が家に帰ってくるのはいつも夜遅かったので、顔を合わせるのは休みの日くらいでしたが、家族思いのとても優しい父親でした。
  母も、とても優しかった。広島には親戚が多かったので、毎日のように誰かが泊まりにやってきていたように記憶しています。とても賑やかな、明るい家庭でした。
(2)昭和18年頃に長兄が、昭和20年5月頃には次兄が、それぞれ召集されて家を出ていきました。昭和20年4月には、小学校3年生だった弟が広島県神石郡(父親の実家があったところです)の神石小学校に疎開していきました。
  弟が疎開し、次兄が召集されてゆき、沖縄戦が終わったとのニュースが入ってきた、昭和20年5月から6月頃には、アメリカ軍の短距離飛行機グラマンやロッキードが、4機から5機で編隊を組んでは広島市内の上空に飛んでくるようになりました。
  毎日のように空襲警報がなり、可能な人はどんどん疎開していきました。
  毎晩、「今日は広島だ」と言っていました。広島は軍都ですから、いつ空襲がきてもおかしくなかったのです。
  当時、子どもだけで疎開できるのは小学校3年生から6年生ということになっていましたので、中学1年生の私は疎開できませんでした。父は当時、警察の幹部として県庁に詰めていたので、その仕事の関係上、一家で疎開することもできませんでした。
  そこで、私は、両親と昭和19年9月に生まれたばかりの妹と4人、水主町の自宅で暮らし続けていました。
(3)私は、昭和20年4月、舟入小学校から県立広島商業中学校に進学していました。3年生は学徒動員で三菱重工や呉の海軍工廠などに行っており、学校に通っていたのは1年生と2年生だけでした。
  昭和20年7月頃からは、授業は全くなくなり、毎日、勤労奉仕にでるようになりました。建物疎開(空襲の際、火災が発生したときに延焼を防ぐため、建物を撤去して道路を広げる作業)や軍隊の使う弾丸を磨く作業、近郊の農家で麦の刈り入れを手伝う作業などに従事していました。
  広島商業中学校は、広島市皆実町の比治山橋東詰近くにあり、家から学校までは歩いて30~40分ほどかかりました。学校は午前8時からでしたが、私はいつも午前7時頃には家をでて、少し早めに学校へ行っては、友達と校庭で遊ぶのが日課のようになっていました。
  私は、健康そのものの、12歳の元気な少年でした。

2 原爆投下時の状況
(1)昭和20年8月6日も、いつものように午前7時頃に家を出て、学校に向かいました。
  父は県庁へ仕事に出ており、水主町の自宅には母と妹が残っていました。
  学校では、この日も、建物疎開の勤労奉仕が予定されていました。
(2)午前8時を過ぎ、私は、400名程の同級生とともに、学校の校庭(比治山橋東詰からすぐの場所、爆心地から約1.7km)に整列していました。
  まさにこれから勤労奉仕に出発せんとしていたときのことでした。
  突然、赤黄色の強烈な閃光が眼前を右から左へとザーッと突き抜けていきました。それは、当時写真のフラッシュとして使ったマグネシウムを焚いた時のような閃光でした。
  同時に、ものすごい熱さを感じました。
  慌てて逃げようとした瞬間、さらに、ものすごい轟音とともに、熱風が襲ってきました。
  2階建ての木造の校舎が、爆風で右から左へとなぎ倒されました。
  学校が爆撃を受けたのだ、と思いました。私は全身に大火傷を負っていましたが、そのことにも気づかず、無我夢中で、校舎の下敷きになった同級生を助け出し、避難場所である裏山(比治山)の暁部隊通信部へと避難しました。
  同級生も皆、私と同じ様に全身に大やけどを負い、皮膚がダラリと垂れ下がっていました。恐怖と混乱の中、皆は散り散りになってしまいました。
  私と一緒にいた同級生400名のうち4分の3が、この日から、学校が再開する10月までの間に亡くなりました。爆心地に近かった広島一中、二中の生徒は全滅でした。
(3)比治山についてしばらく経ってからはじめて、自分が大火傷していることに気づきました。顔の右半分と、右肩から右手の先までが酷く焼けただれ、皮膚がだらりと垂れ下がっていました。顔を触るとにゅるりとした感触がして、皮膚がずるりと剥けました。ランニングを着ていたので、上半身はその形に焼けただれました。ゲートルをはいていた膝下は、ゲートルが焼けただけですみましたが、その上の膝の部分は両足とも大きく焼けただれました。
  私とともに避難してきた同級生やほかの人たちも、私と同じように、全身に大火傷を負っていました。
  不思議なことに、このときの痛みの記憶はほとんど残っていません。何が起こったのかわからず、あまりに大きなショックのために、感覚が麻痺していたのかもしれません。

3 被爆直後の状況
(1)この日は晴天でした。けれど原爆が落ちた直後、周囲は、建物がなぎ倒されたホコリのせいもあってか、不気味に薄暗くなっていたのを記憶しています。
  比治山に避難して1時間ほど経った頃だったかと思います。パラパラと雨がふってきました。避難していたといっても、建物やトンネルなどがあるわけではなく、屋外にいたので、大火傷を負ったランニング姿のまま雨に打たれました。
  通り雨のような感じで一時的に雨が降った後は、太陽が照ってきました。みんな、日陰に避難していました。
(2)日中に動くと、またアメリカ軍の飛行機が飛んできて機銃掃射される、との噂が流れ、多くの人は薄暗くなるまで裏山で待機していました。
  暁部隊の通信兵が、火傷をした部分に食用油をぬってくれることになり、希望者は並んで順番に油を塗ってもらいました。
  そのうちに、学校が爆撃を受けたわけではなく、広島市内が広く被害を受けたことがわかってきました。
  同級生の中でも、郊外や島から通ってきている人たちは、家族の安否を心配して、昼のうちに山をおりていきました。
私も、父、母と妹が無事でいるかどうか、心配でたまりませんでした。
  けれど、昼頃から夕方にかけて、広島市内一面に火の手がどんどん広がってくるのが見えたのです。山の上からその状況を見渡しながら、「うちも駄目か…」と思いました。夕方まで動かない方がよいという声にしたがい、やるせない思いで夕方までじっと待機していました。
(3)夕方5時頃だったと思います。暁部隊の隊員から「広島沖の似の島(にのしま)に移動する」と言われました。暁部隊が、比治山に避難していた私たち学生やほかの負傷者を似の島にある陸軍兵舎に収容することになったのです。
  私は、似の島行きを断りました。母の待つ水主町の自宅に帰ろう、と思っていたからです。
  家族が心配でたまりませんでした。
  私は、同級生の大内君と一緒に山を下り、比治山橋から明治橋の方へと歩きました。私の歩いたところは、爆心地から1kmないし1.5km前後の地域です。
  道中、ほとんどの建物は、爆発の瞬間に破壊し尽くされていました。
  焼け跡から火がくすぶっては、気味の悪い赤い炎が立ち上っていました。
  炎が立ちのぼると風がふき、その風で炎が横にザァッと流れては、火がどんどん燃え広がっていきました。
  熱くて熱くて、歩くのも困難なほどでした。
  歩いていく道すがら、男女の別も年齢もわからないような死体が、ずっと道路の両側に折り重なっていました。
  その中を歩きながら、「ぼくも死ぬのかもしれない」と思いました。
  不思議と恐怖は感じませんでした。そのような感情など超越してしまっていたのでしょう。
  まっすぐ、家を目指して歩き続けました。
(4)大内君とは明治橋の近くでわかれ、そこからは一人で歩き続けました。
  明治橋の川岸では、水を求めて息絶えた人々の、おびただしい数の死体を救援に来た兵隊たちが片づけていました。
  兵隊はたくさんいましたが、そこで暮らしていたはずの生きた住民の姿は全くありませんでした。
  明治橋を渡り、家のすぐ近くまで帰ったものの、その先はひどい火事で進めませんでした。「母と妹はどこかに避難して無事でいるはずだ」と自分に言い聞かせました。
(5)私は、火傷の手当をしてもらおうと思い、日赤病院に行くことにしました。私の右腕は、酷い火傷で皮膚がべろりと垂れ下がっていましたので、私は右手をずっと前に突き出した形で歩き続けていたのです。
  けれど、日赤病院は、ひどい怪我や火傷を負った人びとであふれかえっており、手当をしてもらうどころではありませんでした。
  フロアー一杯に、生きているのか死んでいるのかわからない重傷を負った人たちが詰め込まれるようにして横渡っていました。どの人も、見るに耐えないひどい火傷で、体中がブクブクに膨れあがっていました。病院中、うめき声やすすり泣きが溢れていました。
  火傷で全身が真っ黒になっていた一人の女性が、私のゲートルの名札の学校名を見て「僕は県商?」と尋ねてきました。私が頷くと、「大内を知ってる?」と聞いてきました。大内君のお母さんだったのです。お母さんに、「ついさっきまで一緒にいました」と答えると、お母さんは「よかった」と喜んで涙を流し、そのまま息を引き取りました。その胸には、真っ黒焦げになった赤ん坊をしっかり抱いていました。
  大内君に、お母さんの居場所を伝えなければ、と思いました。
  私は、日赤病院から外に出て、大手町の大内君の自宅があった場所のあたりまで行きました。けれど、辺り一面、火の海で、大内君の自宅は影も形もありませんでした。もちろん大内君の姿も見あたりませんでした。
  私はあきらめて、ふたたび日赤病院の大内君のお母さんのもとへ戻りました。お母さんの遺体は、すでにどこかに運ばれてしまった後でした。
(6)その日はもう夜も遅かったので、私は、日赤病院の床で一夜を明かすことにしました。
  乾パンをもらいました。井戸水だと思いますが、お湯を沸かしてみんなに配っていました。
  私は、フロアーにわずかの場所をみつけて座りこみました。横になる場所さえもありませんでした。
  フロアーでは、動けない重傷者が小便を垂れ流し、あちらこちらで嘔吐する人がおり、とにかく異様な臭いが充満していました。
  朝までほとんど眠れませんでした。
(7)翌7日の朝、私は日赤病院を出て、焼け跡の中を歩き、もう一度、自宅へと向かいました。けれど、家は焼けてしまって跡形もありませんでした。「母と妹はきっと無事だ」と、また自分に言い聞かせました。
  なぜか、猛烈に喉が渇きました。生水は飲むな、と指導を受けていましたが、のどの渇きには耐えられませんでした。焼け跡の破れた水道管からポタポタしたたり落ちる水を飯盒に受け、飲みました。
  「学校に行けば、知っている人がいるかもしれない」と、また焼け跡を歩き続け、再び学校へと引き返しました。
  学校では、生き延びた先生や先輩たちが、炊き出しや負傷者の世話をしていました。専売公社に救援センターができていると聞き、油を塗ってもらいにいきました。
  広島一中と二中の生徒達は6日の朝、雑魚場町に集合していた、と聞きました。私は、いてもたってもいられず、仲のよかった小学時代の同級生を探しに雑魚場町まで歩きました。焼け野原の中に、焼けこげた学生服の一部や帽子、カバンなどがバラバラと落ちていました。焼死体は既に片づけられた後だったようで、何体かしか残っていませんでした。焼け残ったカバンについている名札をみたり、焼死体をひっくり返したりして友達を捜しましたが、見つかりませんでした。見つからなかったことに逆にホッとしました。友達もどこかで生き延びている、と信じました。
(8)学校に戻った私は、全身の力が抜けてしまったようになり、もう動けませんでした。酷い火傷と体のだるさのために、体を起こすことすら困難を覚える状況となりました。全身が針で刺されたようにヒリヒリと痛みました。私は、校庭の防空壕でずっと横になっていました。
  翌8日は、広島高校(広島女子専門学校)にも救援センターができたとのことで、先生と先輩にリアカーに乗せてもらい、油を塗ってもらうために連れて行ってもらいました。
(9)ところで、家族の間では、もし空襲に遭って家族がバラバラになってしまったときには、広島市郊外の可部町にある父親の知人、二宮さんの所に避難するか、そこに連絡を入れるという申し合わせになっていました。二宮さんは二宮鋳造という大きな工場を持っており、その敷地内に自宅がありました。可部の人なら誰でもその工場を知っていることから、そのような申し合わせをしていたのでした。
  私は、自由に体が動かせない状態にあって、父と母、妹の消息もつかめないままだったことから、時を追うごとに不安が大きく募っていました。家族を捜しに来る人の中に父親と似た姿を見つけては、思わず「おとうさん!」と大きな声で叫びました。そのたびに、人違いにきづき、落胆するばかりでした。
  8日頃のことだったと思います。ちょうど、可部町方面に車で帰る、という人がいました。
  乗せて行ってもらえることになりました。「やっと可部に行ける。家族に会える。」そのときのうれしさは、涙が出るほどでした。
  けれど、いざ車に乗り、「二宮鋳造?まで連れて行ってほしい」と頼んだところ、「連れて行ったはいいが、そこで知らないと言われたら困る」と言われ、車からおろされてしまったのです。
  おいていかれた私は、泣きました。もう自分ではどうしようもない、と思いました。情けなくて、悔しくて、ただ泣きました。
  ただ、恨むだけでした。
  自分自身か、戦争か…。12歳の私には、何を恨めばよいのかさえも、わかりませんでした。
(10)それからも、校庭の防空壕で寝たきりの状況が続きました。痛くて容易に体を動かすこともできず、体が鉛のようにだるくて、食欲もありませんでした。のどだけが無性に渇きました。
  8月10日頃のことだったと思います。
  突然、父親が迎えに来てくれました。
  先生が、可部の二宮さん宛に、私を迎えにくるようにと連絡をとってくれ、連絡を受けた父親が迎えに飛んで来てくれたのです。先生は、私の頭がおかしくなっている、と告げていたそうです。私が、うわごとのように他人に向かって「おとうさん」と何度もよびかけたりしていたからです。
  父は、県庁で被爆していました。建物が崩れて床下へ落下し、無数の小さなガラス片が体内に入って血だらけになったそうです。6日夜、三菱重工の人に、可部まで車で連れて行ってもらったとのことでした。自分も怪我をしていながら、焼け跡の中、自宅に母と妹を捜しに行き、私のことも、あちらこちら探し回ってくれていたそうです。
  私は父を含め4人がかりで大八車に乗せられ、市役所から中国電力をとおって、爆心地近くの産業奨励館(後の原爆ドーム)で一休みした後、横川駅まで運ばれました。そして、横川駅でトラックに乗り換えて、可部の二宮さん宅まで運ばれました。道中は、ほとんどの建物が倒壊し、焼き尽くされており、あちこちでまだ火がくすぶるような状況だったことを覚えています。途中で一休みした産業奨励館は、私が小学生の頃、よく学校からみんなで絵画展や物産展などの見学に行っていたなじみ深い建物でした。その建物が、原爆を受けて鉄骨むきだしとなっており、その冷たいコンクリートの床に座って休んだことを印象深く覚えています。
(11)二宮さん宅に行ってしばらくの頃から、火傷した部分が化膿してきました。痛みはますます酷くなってきました。起きあがるどころか、わずかな身動きもとれないような状況となってしまいました。大小便も全部他人任せでした。食欲はやはりなく、のどだけが渇きました。
  二宮さん宅には10日頃から16日頃まで1週間ほどお世話になりました。敗戦の玉音放送をその知人宅で聞いたことを覚えています。
  そのうちに、化膿した部分から膿が流れ出してとまらないような状態になりました。
  そこで私は、可部にあった陸軍病院(可部小学校の校舎を使っていました)に入院することになりました。8月16日頃のことです。
  膿が止まらず、ガーゼがびしょびしょになりましたが、ガーゼを取り換えてもらえるのは1週間に1度だけでした。中でも一番火傷のひどかった右腕が耐えられないほど痛み、ひどい悪臭を発するようになりました。ガーゼをあけてみると蛆がわいていました。当時の治療は消毒だけでした。
  あまりに酷い状態だったため、入院から1か月ほど経った頃には、医者から右腕の切断を勧められました。父親が断固反対してくれたため、切断を免れましたが、あのときの痛みは言葉で表現しようもありません。特にガーゼを取り替えるときの痛みは大変なものでした。布団や毛布があたると痛いので、右肩から右手の先まですっぽりと覆うような金網を作ってもらい、固定していました。
  入院後も食欲がない状態が続きました。食事制限も課されていたので、おかゆを少し口にするくらいでした。
  入院中、口を少しふくと、血がついていることがしばしばありました。歯茎からの出血でした。歯茎からの出血は、被爆直後からあったかもしれませんが、自分で気がついたのは可部に行ってからのことでした。入院後1か月ほどは毎日のように出血が続き、その後もしばらくの間は、ときどき出血があったと記憶しています。
(12)昭和20年10月、陸軍病院が大竹国立病院となりました。大竹に移るかと聞かれましたが、断り、父と一緒に、広島県甲奴(こうぬ)郡上下町にあった母の実家に行きました。母方の祖父は昭和20年8月20日、可部に私の見舞いに来てくれている時に急に亡くなり、祖母はそれ以前に死亡していたため、家が空き家になっていたのです。
  私はトラックの荷台に荷物と一緒に乗せられ、運ばれました。父と次兄が付添ってくれました。その後も、父と次兄が、寝たきりの私を二人で介護してくれました。長兄は、復員後、広島県庁の衛生部に就職したので、よくアメリカ製の薬を持って帰ってきてくれました。
  結局、昭和21年9月頃まで、寝たきりの状態が続きました。トイレにもいけず、自分の意思で手を動かすこともできませんでした。
  昭和22年の3月、私はようやく復学しました。中学1年の6月頃からですので2年近くの空白がありましたが、1年遅れにしてもらい、新制中学の2年生に編入しました。
  復学した時点でも、化膿は治りきっていませんでした。私は毎日通院してリバゾールを塗ってもらい、ガーゼを交換していました。
  復学して半年ほど経ってようやく、化膿していた部分に新しい皮膚ができてきて、ようやく痛みも薄らいできました。
  しかし、全身にケロイドが残りました。私は、火傷のケロイドを見られるのが嫌でたまらず、体育の授業の時も、いつも長袖を着ていました。今でもあの日着ていたランニングの痕がくっきりとわかるほどのケロイドが残り、右手の裾をすこしまくれば生々しいケロイドの跡がくっきり現れます。首や両膝も同じです。右手は、あの日以来、酷いケロイドのために真っ直ぐに伸ばすことができません。
  直接差別を受けたことはありませんでしたが、いつも自分自身の中で劣等感を抱えて生きてきました。

4 母と妹の被爆死
  母と妹は、やはり、自宅で被爆死していました。
  父は、おそらく原爆投下直後の8月7日か8日には自宅の焼け跡に行き、母と妹の死を知っていたと思います。けれど、重症の私に気を遣ってか、そのことは一言も告げませんでした。水主町の住民の空襲時の避難場所は広島市郊外の平良村と決まっていたので、平良村にいる、という感じで聞かされていました。
  終戦後、8月20日前後に復員して帰ってきた兄たちが、母と妹のお骨を拾いに行ったそうです。当時1歳にもなっていなかった妹のお骨は、小さくて見つけられなかったそうです。
  私はその頃、陸軍病院に見舞いに来てくれた兄や親類のひそひそ話の中に葬式の話などが出ていたことから、いつしか母と妹はやはり駄目だったのだと悟りました。
  私は、このときの感情をあまり覚えていません。私は被爆後、焼け跡を歩きながらおびただしい数の死体を目にし、校庭の防空壕にいる間にも同級生が次々死んでいくのを目の当たりにしました。先輩や先生が、しょっちゅう死体を引き取りに行っていました。戦争というのはこういうものなのだ、と体中で痛烈に感じていました。だから、母と妹のことも、どこかで、もう駄目なのだろう、とあきらめるような気持ちを持っていたのだと思います。
  戦争とはこういうものなのです。

5 被爆後の健康状態
(1)急性症状
  私は、被爆翌日の8月7日、校庭にたどり着いてから、容易に起きあがれないような状態になってしまいました。これは酷い火傷の痛みのせいだけではなく、強烈な体のだるさや倦怠感があったからです。あのときの状態を考えると、発熱もあったはずだと思います。
  また、被爆してまもなくの頃から、頭痛や下痢もあったと思います。
  さらに、歯茎からの出血がありました。これも被爆直後からあったのかもしれませんが、自分で気がついたのは8月10日頃に可部に行ってからのことです。8月16日頃に陸軍病院へ入院した後1か月ほどの間は、毎日のように歯茎からの出血が続きました。その後もしばらくの間は、ときどき出血する状態が続きました。
  なお、出血傾向、血が止まりにくいという傾向は今でも続いています。
(2)また、私は被爆後、非常に疲れやすい体質になってしまいました。
  私の父は、昭和20年の冬、突然倒れ、2週間ほど起きあがれない状態となったことがありました。私も、疲れが激しいときなど、本当に体が鉛のようにだるく、朝おきあがるのが困難なほどの状況になりました。父が倒れたときの状態や体調がよくわかるような気がしました。
  なお、父は、昭和53年頃から体調を崩して原爆症の認定患者となり、昭和56年、急性白血病で亡くなりました。
  私は今までずっと、父のように、また他の被爆者の人たちのように、自分もいつ体調を崩して病気になるか、いつ死んでしまうのかと、不安を抱えて生きてきました。
(3)40歳前後からは、風邪を引きやすくなり、また、疲れやだるさがひどい時は、ときどき点滴を必要とする状態になりました。
  肝炎や糖尿を患い、医者にかかるようになったのも40歳前後になった頃からだと記憶しています。当初、医者は肝炎の原因がわからず、アルコールのせいではないか、と言いました。けれど私は当時から、飲むときもビール1本程度、ほんの晩酌程度しか飲んでいませんでした。医者にそのように言われてからは、その半分くらいしか飲んでいません。それなのに、肝機能はずっと悪い状態が続いています。
  私は今まで、「頑張るしかない」と思い、頑張り続けてきました。
  けれど、なんともいえない体のだるさ、疲れは年を追うごとに酷くなり、10年ほど前からは週1回の点滴、3年程前からは毎日の点滴が必要不可欠な状況です。
(4)平成10年(1998年)、喉頭腫瘍との診断を受けました。
  放射線治療のため約90日間入院しましたが、白血球が減少し、放射線治療を中止せざるを得なくなりました。これは、被曝時に大量の放射能を浴びたために、一般の人以上に白血球が減少したためだろうと思っています。
  結局、再入院して摘出手術を受けるしかなく、手術の結果、言葉を失いました。
  手術の際には、首の部分にケロイドが残っていることから、通常の切開ができず、医師が苦労しておられました。術後は、首の筋肉が時々痛むようになり、痛みが出るたびに整骨院に通っています。
  現在も3か月に1回の割合で大阪医大へ通院し、エコー、レントゲン等の検査を受けるなど経過観察をしています。また、痛み止めなどの投薬も受けています。
(5)今は、毎日のように近所の医院(黒岡医院)で点滴を受けていますが、日曜日は病院が休みなので点滴を受けることができません。一日点滴をしないと、やはり翌日は普段にもまして体がだるく、朝、なかなか床から起きあがることができません。
  不眠もあり、睡眠剤や安定剤も処方されています。
  私は毎日毎日、病院通いをし、薬漬けの日々を送らなければならない状況におかれているのです。

6 裁判所に訴えたいこと
  私は、喉頭腫瘍の診断を受けて退院後、原爆症認定申請をしました。私が喉頭腫瘍になったのは、大量の放射線に被曝したからに違いなく、必ず認定されると思っていました。
  しかし、厚生労働省は、私の聴き取りさえもせず、申請を却下しました。
異議申立の際は、喉頭腫瘍に加え、ケロイドについても申請しましたが、この異議申立に対しても、3年以上ほったらかしにされた末、同じく却下でした。ケロイドのため、今も、私の右手は真っ直ぐに伸ばすことができませんが、手術をすれば伸びるようになると言われています。この原爆による酷いケロイドにより、私は本当に苦労してきました。このケロイドさえも原爆と関係がないというのはどういうことでしょうか。
  あとは、司法に厳正な裁判を求めるしかありません。
  戦後も、この地球上で何千回という核実験が行われていますが、広島・長崎への原爆投下は、何十万人の非戦闘員の上で行われた核実験だと思えてなりません。
  原爆によって、何十万の人びとの人生がゆがめられ、生き残った人びとは今でも日々苦しめられ続けているのです。
  これまで忘れたいと思い続け、誰にも話さなかった体験や思いを、こうやってお話しすることは大変辛いことですが、正しい裁判をしてほしい、と強く願い、お話ししました。
  裁判所には、被爆者の思いを、事実を、ぜひご理解頂き、賢明なる判決をお願いしたいと思います。

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2009.06.25 Thu l 徒然なる思い l コメント (3) トラックバック (0) l top

コメント

No title
佐伯さんの声を聞いたことはありませんが語り口がつたわるような文面ですね。最後の下りが印象的です。
2009.06.25 Thu l 北の家族の母. URL l 編集
No title
佐伯さんと何度となく筆談しました。

最初に事務所でお会いした時のことを今でもよく覚えています。

友人が亡くなった話、ウジ虫が体中にわいた話、ケロイドの話、
生き証人とはまさしくといったお話です。
僕が知らない「臭い」を知っている被爆者の話の奥底には、
「二度と同じような惨状をもたらさないで欲しい」といった
願いがあったと思います。佐伯さん、本当にお疲れさまでした。

一審判決で勝訴した時はあれだけ元気だった佐伯さん。
佐認定通知を届けたときには、集中治療室でした。
なぜこれほどまでに認定が遅れたのか。
確か、異議申立だけでも2年近く待たされていた記憶です。

厚生労働大臣はやはりいち早く謝罪すべきだと思います。


2009.06.27 Sat l N森. URL l 編集
No title
被爆者の思いを伝えるてだてとしてブログは有効だなあと思います。続けてください
2009.06.27 Sat l 北の家族の母. URL l 編集

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