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被爆二世のノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟・裁判傍聴記(80)
6月3日(水)地裁第2民事部で最後の原告が勝訴判決!
決して諦めない闘いが正しい裁判に流れを引き戻す!
2020年6月5日(金)

新型コロナウイルス感染防止のためノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟も3月以降の法廷が軒並み延期となり、5月末からやっと順次開廷されるようになってきた。5月27日(水)には大阪高裁第2民事部苑田朔爾さんの控訴審判決があり、その1週間後には大阪地裁第2民事部でN・Kさんの判決と続いた。二つの判決ははっきりと明暗を分けることになった。

5月27日(水)、もともと4月17日(金)の予定だった苑田さんへの判決言い渡しが1ヶ月以上延期されてこの日を迎えることになった。コロナ対策のため、開廷前集会も、入廷行進もなし、判決後の旗出しもしないという寂しい構えで判決を聞くことになった。構えだけでなく、法廷内の代理人席数も絞られ、傍聴席も13人と席数の3分の一ほどの人数に制限されての法廷だった。

原告の苑田さんは出廷するのも困難な体調のため、はるか郷里の長崎から判決を待つことになった。午後4時開廷。高裁第2民事部を担当していた田中敦裁判長によって書かれた判決文だが、田中裁判長は人事異動となり、この日の判決言い渡しは後任の清水響裁判長によって告げられた。“告げられた”という表現がそのまま当てはまるような、「主文、控訴人(苑田さん)の控訴を棄却する」の一言だけが読み上げられた極めて事務的なものだった。

会場を大阪弁護士会館に移して報告集会が開催された。愛須勝也弁護団事務局長から、評価できるところの一切ない、スカスカの内容で、松谷訴訟以前に遡った頃のような判決だ、という厳しい評価が下された。

苑田さんは3歳の時、爆心地から4.2㌔の長崎市小島町で直接被爆。8月15日爆心地を通って避難したため入市被爆もしている。避難先で急性症状も発症し、以来病弱となった体で苦難の人生を歩んできた。70歳の時前立腺がん(申請疾患)を発症し全摘手術、今も転移や新たな部位でのがん発症に不安を抱えながらの日々となっている。一審判決は昨年の2月28日。東小島町には「黒い雨」は降っておらず放射性降下物の影響は認められない、8月15日の爆心地付近の放射線量は低下していて人体に影響を及ぼすようなことはなかった、等々の理由を並べられて苑田さんの訴えは退けられた。

今回の控訴審判決は、まず徹底して被爆の事実認定を否定するところから始まっている。8月15日に爆心地付近に入市した事実を裏付ける証拠は存在しない、被爆者手帳の申請書類にもそのことの記述はない、直爆を受けてから避難するまでの6日間の詳細な生活状況は不明等々、本人の記憶と陳述以外に立証できるものがなければすべて否定するという態度だ。そして、放射性降下物を体内に摂取したとしてもその被ばく線量等の詳細は不明であり、それが証明できない以上人体への影響を認めることはできない、とされた。加えて、他原因にも言及し、がんについてもしきい値があるかのような表現があったり、被爆と関係ない原因で発症したとしても不合理ではない、と判決された。被爆者と向き合おうとする姿勢は欠片もなく、長年の認定訴訟で構築されてきた被爆者救済の枠組みを見ない、根本的に異なる判決だ。

苑田さんの控訴審は1回目が昨年の7月25日。この時は苑田さん自身が意見陳述し、担当の濱本由弁護士中道滋弁護士によって放射性降下物の危険性や内部被曝の脅威などがパワーポイントを駆使して陳述された。この時私たちは被爆者の被害と訴えにしっかりと向き合った法廷が進められるのではないかと期待した。2回目は10月15日。しかしこの日は一転して裁判長の強引な訴訟指揮が露になった。控訴側が求めた名古屋大学名誉教授の沢田昭二先生の証人採用申請が却下され、控訴・非控訴側双方の意見書提出期限についてもほぼ一方的に決められるような訴訟指揮が公開の法廷の場で展開された。口頭による意見陳述などはないままだった。3回目は年明けの1月29日。この日は尾藤廣喜弁護団幹事長によって、厚労省の定める放射線起因性の判断における「総合的な判断」についての意味と実態が陳述されたが、それを持って早々と結審が宣告されてしまった。
口頭での陳述や尋問だけを聞いている傍聴席の私たちにとって、一体が何が争われ、何が問われているのか、よく分からないままの裁判の推移だった。初めから結論ありきで、それに沿って強引な訴訟指揮がとられたとしか思えない判決だ。沢田先生による意見書は3回も提出され、濱本弁護士や中道弁護士によって練り上げられた意見書も貴重なものだったはずだが、判決はそこに示されている主張・意見には一言も触れず、ひたすら避け通したものでしかなかった。報告集会に参加している弁護士、支援のみなさんからも異口同音に、あまりにもひどい判決への憤りと批判が集中した。

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今回出廷することのできなかった原告の苑田さんからの、弁護団と支援の人々へのメッセージが披露された。「支援していただいている人たちへ、思うように移動することができません。日頃からのご恩に厚くお礼申し上げます。皆様もご自愛下さい。くれぐれも」という内容だった。

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苑田さんのもともとの原爆症認定申請は2014年11月6日、提訴は2015年8月6日。5年も6年も頑張ってきた結果がこれか、と思うと辛く悔しい思いが増してくる。
このままの状態でノーモア・ヒバクシャ訴訟を終えてしまっていくことはできない。もう一度巻き返して頑張っていくことを確認してこの日の報告集会は閉じられた。

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1週間後の6月3日(水)、今度は地裁第2民事部の判決の日を迎えた。地裁第2民事部はもともと4月10日に予定されていた判決が、2ヶ月近く延期されてのこの日だ。今回も事前集会も入廷行進もせず、旗出しもしないままだ。法廷内の代理人席も、傍聴席も大幅に制限され、なんとなく閑散とした雰囲気の中で開廷を待った。

地裁第2民事部の原告はN・Kさん(女性、79歳、神戸市)ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟の地裁における最後の原告となる。娘さんたちに付き添われて入廷し、原告席に着席された。裁判長は昨年2度に及ぶ判決言い渡しで、原爆症認定訴訟史上最悪の判決だと言われた三輪方大裁判長。今回もとんでもない判決が出されるのではないか、その不安を拭いきれないまま傍聴席に座った。
午前11時30分開廷。三輪裁判長も人事異動となったため、後任の森鍵一裁判長から判決は読み上げられた。「主文、厚生労働大臣による(N・Kさんの)原爆症認定申請の却下処分を取り消す」
あれ、勝訴じゃないか。厚労省の却下処分は誤りだとされたんだ。閉廷を待つまでもなく、代理人席の弁護団からN・Kさんに喜びの声がかけら、熱い握手が交わされた。
正直言って意外な判決。法廷内では詳しい事情が分からないが、みんなわくわく感いっぱいの気持ちで報告集会会場の大阪弁護士会館に足を運んだ。

N・Kさんは4歳10か月の時に爆心地から3.6㌔の長崎市八坂町で直爆被爆。翌日の8月10日、11日と叔父を探しに母親に連れられて三菱兵器工場跡を歩き回り入市被爆もした。被爆後のN・Kさんは数々の病気に見舞われる人生を送ってきた。20歳の頃から貧血で造血剤を処方され、27歳の頃にはひどいめまい、吐き気も加わり、33歳の時に声帯ポリープで手術。69歳で大腸ポリープ摘出手術、甲状腺機能低下症の診断も受けた。そして72歳の時に右乳がんを発症して腫瘍摘出手術、3年後に再発し、この乳がんを原爆症認定疾病として申請した。N・Kさんと一緒に被爆した家族のことも重要だ。父親は肝臓がんで、母親も膀胱がんで亡くなっている。お兄さんも骨髄異形成症候群で亡くなり、胎内被曝だった弟さんも白血病らしき症状で生後間もなく短い命を閉じている。

これだけの被爆の事実があり、既往歴や一緒に被爆した家族の状況などもあれば、N・Kさんの乳がんは当然被爆したことが影響していると誰もが考えるはずだ。しかし、厚労省は認めてこなかった。その理由は原爆症認定に際しての「積極的に認定する範囲」の基準に機械的に頑なに拘ってきたことにある。「積極的に認定する範囲」は「被爆地点が爆心地より3.5㌔以内である者」と定めており、3.6㌔のN・Kさんはわずか100㍍の差で無情にも切り捨てられていた。一方放射線起因性の判断にはもう一つの基準「総合的に判断」するというものがあり、「積極的認定範囲」以外でも、被曝線量や、既往歴、環境因子、生活歴等を総合的に勘案して判断する、としている。N・Kさんの場合、当然この「総合的判断」で認定されなければならないはずだが、厚労省は実際には「総合的判断」などは放棄して、「積極的認定基準」を機械的に適用させることだけに重きを置いてきた。こんな不条理なことをさすがに裁判所も追認することはできなかった、のではないかという思いが頭の中をよぎった。
これだけの状況証拠があるのに、僅か100㍍の差を理由に認定を拒否する、そのことが世論に与える影響を裁判所も考慮せざるを得ず、あの裁判長もさすがに覚悟して出してきた判決だったのではないか、というのが愛須弁護団事務局長からの最初の感想だった。

被爆の事実認定では、叔父さんを探して入市被爆したことは否定されている。しかし、叔父さんが救助されてから約1ヵ月間、母親が叔父さんの看護するのを手伝っており、その中で粉塵を吸い込んだり、飲食も通じて体内に放射性物質を取り込んだ可能性が高いことを判決は強調している、との報告だった。被爆者援護法で定める被爆者の定義の内、第3号被爆者と言われる人々は「身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった方。例えば、被災者の救護、死体の処理などをされた方」とされており、そのことを強調した判決だったようだ。

N・Kさんは本人尋問の際などで叔父さんを救護した経験をリアルに証言していたが、原告側はこのことを特別強く主張していたわけでない。被告・国側もそのことを特別に争点にしてはいなかった。しかし、裁判所は、直爆による放射線の影響や入市の事実などは否定しつつも、それでも原爆症認定に道をつけるために、敢えて救護被爆の影響に着目したような判決内容だ。
さらに初期放射線以外にも、救護・介護なども通じて外部被曝、内部被曝の影響があったことまで認めている。しかも、具体的な被曝線量など分からなくても構わないのだとまで言って。そこまで言われると、昨年11月に下された高橋一有さんへの敗訴判決、今年1月に出されたY・MさんやO・Hさんへの敗訴判決は一体何だったのか、と言いたくなる。あの判決はもう一度やり直すべきではないか、と。

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N・Kさんは報告集会にも参加された。N・Kさんは原爆症認定制度のことなど何も知らない人だった。それが乳がんを発症したことで東神戸診療所にお世話になるようになり、郷地先生などから色々なことを教わってきた。郷地先生やみなさんのおかげで今日の日を迎えることができたと感謝の挨拶を述べられた。挨拶を受けて、参加者全員が熱く長い拍手と花束を贈った。

その後、N・Kさんの裁判を担当してきた吉江仁子弁護士から以下のような感想が述べられた。福島原発事故などなければ負ける要素のない裁判だと思ってきた。絶対に負けるはずはないと思ってきたが、その通りに本当に勝利出来て良かった。昨年から敗訴判決も相次ぎ、裁判はなかなか難しいという思いが広がっていた中で、一筋の希望の灯りが見えてきたのではないか。今日の判決を力に、多少他原因の危険因子などあってもどんどん被爆者のみなさんが原爆症認定申請するようになっていって欲しい。

報告集会は最後に、藤原清吾弁護団長によるまとめで締めくくられた。昨年の2民判決から、今年の最高裁判決、そして先週の大阪高裁判決と敗訴が続いていた中で、この流れを止める、もう一度正しい流れに戻す今日の判決だったと思う。原爆症認定訴訟、ノーモア・ヒバクシャ訴訟で積み上げてきた裁判の内容を基にすれば、今日のような判決しかあり得ないことを声明では明らかにした。問題はこのような判決の流れが何故行政を変えるまでに至らないのかということ。私たちはいくつの敗訴があっても決して挫けずに頑張ってきた。正しいことは最後まで正しい。私たちは決して諦めない、ということをもう一度確認して、まだ不十分で間違ったことをしている行政を正す、そして核兵器廃絶がきちんと出来るように核兵器禁止条約の批准を求める、そのことを頑張っていこう。
久しぶりとなるスカッとした判決を受けて、参加者全員が晴れ晴れとした気分を抱きながら散会することになった。

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N・Kさんの判決内容報告を聞いていて、特に叔父さんの救護・介護による被爆影響が強調されたと聞かされて、15年前、原爆症認定集団訴訟で京都からの原告で奮闘された森美子さんのことを思い出した。森さんは被爆当時大村海軍病院に看護師として徴用されていて、膨大な人数に上る被爆者の人々の看護に当たった。長崎の街には一歩も踏み入れたことがないのに、直後から下痢、発熱の急性症状を発症し、60歳頃から肝機能障害に見舞われるようになった。原爆症認定申請したが却下され、2006年に集団訴訟の一員として提訴した。当時3号被爆者で提訴したのは全国でも森さん一人だったと言われている。3号被爆者は端から認定対象とは認められていなかった頃、厳しい闘いを余儀なくされ、一審、二審とも勝訴判決を得ることはできなかった。それでも判決は「(森さんが)内部被曝、外部被曝していても決して不自然ではない」と述べ、救護被爆者の放射線被爆の事実を認めた。初めて3号被爆者に認定の道が切り開かれたと、当時評価されている。
後に森さんは、「救護によって被爆した人は広島でも、長崎でも本当はもっともっと多いのではないかと思います。救護活動によって本当は被曝しているにも関わらず、自分を被爆者と思っていない人も全国にはたくさんいるのではないでしょうか」と述べられている。
その森美子さんが6月4日(木)永眠された。享年95歳。森美子さんの闘いがN・Kさんの勝訴判決に繋がっているのだと思いつつ、心から哀悼の意を表します。

ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟今後の日程
 2020年 6月10日(水)14:30 控訴審・高裁第12民事部 74号 高橋さん弁論

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2020.06.06 Sat l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top

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