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被爆二世の
ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟・裁判傍聴記(33)
第7民事部の本人尋問開始、こんなひどい反対尋問が許されるのか!
控訴審Bグループでも国側証人を徹底批判、反論!
2015年10月24日(土)


 保留となっていた大阪地裁第7民事部係属の5人の原告の裁判は結局10月22日(木)に行なわれた。第7民事部は7月14日の裁判が意見陳述なしでごく短時間で終わっているので今回は実質3月10日以来の法廷となった。この間、年度途中にも関わらず裁判所体制の交代があり、裁判長は田中健治裁判長から山田明裁判長に変わった。山田明裁判長と言えば一昨年3月まで大阪地裁第2民事部でノ―モア・ヒバクシャ訴訟を担当した裁判長で、8人の原告全員に勝訴を言い渡す判決文を書き置いて第2民事部を離任した人だ。再び大阪地裁帰任となり今度は第7民事部で顔を合わせることになった。午後1時30分開廷の瞬間、懐かしい人と再会したような気分になった。

 第7民事部はこの日から本人尋問だ。この2年間ノ―モア・ヒバクシャ近畿訴訟はたくさんの意見陳述は行なわれてきたが、本人尋問、証人尋問は随分久しぶりとなる。本人尋問は一昨年12月に第2民事部Aグループの原告に対して行なわれて以来となる。
本人尋問最初となるこの日は内田和子さん(81歳、神戸市在住)が証言台に立った。内田さんはゆっくりと落ち着いた口調で宣誓をし、主尋問担当の吉江仁子弁護士の質問に一つひとつしっかりと答えていった。内田さんは13歳の時、長崎市寄合町の自宅付近(爆心地から3.8km)で被爆。2日間防空壕で過ごした後、両親、姉、本人、弟の家族5人一緒に父親の実家のある佐賀県嬉野に向かった。交通手段の何もない中内田さん一家は歩いて長崎市街地を通り抜け、爆心地も経て道ノ尾駅まで至った。道ノ尾駅で一晩明かし翌日汽車に乗って出発、途中からバスを乗り継いで嬉野に辿りついた。何日か経って嬉野で玉音放送を聞いているので長崎の爆心地を歩いたのは8月11日か12日ということになる、というのが内田さんの確かな記憶だ。爆心地を歩いた日、父親は足に戦地でのけがを負っており、母親は身重の身で、そして弟は目の不自由な人だった。家族が身を寄せ合い、支え合って、惨状の街を潜り抜けるようにして歩いた避難行だった。内田さんは道々のあちこちで死体が積み上げられ燃やされていたこと、言葉にもできない強烈な臭い、道ノ尾駅を埋め尽くす被爆した人たちの凄惨な姿などを忘れることができない。18歳の時神戸に出てきた内田さんは昭和44年(1969年)左の乳がんを発症、その後白内障、緑内障等の手術や治療もし、平成24年(2012年)今度は右の乳がんも発症した。原爆症認定申請疾患はこの乳がんだ。

 被爆の状況、戦後の闘病のことが丁寧に語られた証言だったが、傍聴席で聞いていて中でも2つのことが特に印象的だった。一つは内田さんの家族を次々と襲った悲劇とでも言うべき病魔だ。父親は昭和23年(1948年)食道がんで亡くなり、母親と姉は同じ肺がんで亡くなっている。弟も昭和50年(1975年)心臓病で死亡。被爆時母親の胎内にいた妹も内田さんと同じ乳がんを発症している。原子爆弾の惨たらしさをこれほど示す状況的証明はないのではないか。こうした証言をしている時の内田さんの背中は小さく震えているような気がした。もう一つは内田さんは昭和56年(1981年)になって初めて被爆者健康手帳を取得していることだ。被爆から36年、手帳の制度ができてから24年も経っている。手帳とか援護制度のあることを内田さんはまったく知らなかった。神戸で医者から教えてもらって初めて知り、故郷の母や姉にも助けられて奔走しやっと取得することができた。最初の乳がんの手術をした時、何も知らない内田さんは原爆医療法(当時)の適用などまったく受けることはできなかった。

 主尋問の最後に、内田さんは促されて裁判所への訴えを述べた。被爆者はみんな辛い体験をし今もそれは続いている。私も、他の原告の人たちも自分たちだけのために裁判をしているのではない。みんなが辛い思いをしなくてすむようにして欲しい。手帳をもらっていない人もたくさんいる。みんなに手渡るようにして欲しい、と。

 主尋問に引き続いて反対尋問が行われた。新顔の若い女性代理人が尋問担当だったが、率直に言って、これまで経験したことのないひどい尋問だった。尋問はあらかじめ約束されていた時間枠いっぱいまで使って延々と行なわれたが、そのほとんどが内田さんの被爆者健康手帳申請時の被爆状況証明と今回の原爆症認定申請のそれとが違っていること、手帳申請では14日入市となっているのに、どうして今回は11日または12日入市なのか、ということだけに焦点を当てたものだった。と言うより、手帳申請時の14日入市が正しいのであって、11日または12日入市は間違っている、嘘をついているのではないかと言わんばかりの追求だった。11日または12日入市なら悪性腫瘍の積極的認定範囲の100時間以内となるが、14日入市なら認定範囲の100時間を超える。なんとしても14日入市にして認定範囲を超える状況にしてしまいたい、そんなことがあからさまに狙われているような尋問だった。

 手帳申請時の証明との食い違いがあってそのことを質問されるのはやむを得ない。しかし、今回の国側代理人の尋問の仕方、内容は普通の感覚では考えられない、常軌を逸したものだった。それは単に代理人の尋問技術の稚拙さなのか、法廷を刑事事件の被告人尋問と勘違いしているのか、はたまた代理人の人格の現れなのか。傍聴席で聞いていて「どうしてこんなことを質問するのか?」と理解に苦しむことの連続だった。例えば、「11日または12日に嬉野に向かって家を出たと言うが、その日付はカレンダーで確認したのか?」、「どうして嬉野に行くことにしたのか?」、「長崎の街を行くのにどの交通機関を使うつもりだったのか?」「爆心地がどんな状況になっているかを分っていて向かったのか?」、「道ノ尾駅から先は汽車が動くのを知っていたのか?」、「あなたは罹災証明書をとっていなかったのか?」、「手帳はお姉さんの手助けで申請したということだが、お姉さんはどうして間違った被爆状況証明で申請したのか?」等々等々だ。被爆直後の長崎の街、人々を襲った破壊的な状況を考えれば、交通機関などまともに動いていないこと、「爆心地」などという認識は誰にもなかったこと等々容易に想像できることだ。嬉野への避難は親が考えて決行したことで、まだ少女だった内田さんたちは必死になってついて行っただけで、詳しいことは何も分るはずがない。親たちが判断して行動したことを当事者でない内田さんにいくら質問しても、内田さんも「子どもだった私にわかるはずはありません」と繰り返し答えるしかなかった。

 被爆者健康手帳を申請する時の被爆状況証明は、当時の様々な事情、状況から必ずしも正確でないことは、それこそたくさんの人たちが証言している。これまでの集団訴訟でもノ―モア・ヒバクシャ訴訟でも幾度となく明らかにされてきたことだ。したがって今回の尋問に際しても手帳申請時の状況を聞けばそれで済むことなのに、「14日入市」にこだわった追求がしつこく繰り返された。
たまりかねた原告側代理人席から反対尋問への厳しい批判と指摘の声が飛ばされた。遂には裁判長からも国側代理人に対して質問の仕方を変えろと注意がされる始末だった。傍聴席も、初めはトンチンカンな質問に失笑が漏れていたが、それは次第に怒りへと変わり、最後は「もういい加減にしろ!」と怒鳴りたい気持ちをみんなが必死に抑えている様相になっていった。私の怒りがピークに達したのは、国側代理人が「被爆者手帳を申請した時の被爆状況証明が間違っていたことが明らかになれば、手帳は返納しなければならなくなることを知っているのか」と口にした時だ。それはおどしだろう!原告の動揺を狙ったそんな尋問が許されるのか!

 国側代理人の執拗な尋問にも屈せず内田さんは答え続けていったが、遂には「あの時の悲惨な状況を分ろうとしないあなたたちにいくら話してもしようがない」、「こんな性悪な質問はない」、「もう帰りたい」と本音を口にするまでになった。それでも原告側代理人の励ましに支えられて1時間ほどかかった尋問を最後までやり通した。尋問終了の瞬間拍手を贈りたかったけど、拍手はかろうじて抑え後の報告集会に回すことにした。

 尋問の後第7民事部の次回期日が12月3日(木)と決められて閉廷となった。第7民事部もこれまでの審理の遅れを取り戻し、どんどんスピードアップしていこうとするかのような雰囲気だった。
 裁判終了後いつもとは違う裁判所北側のプロボノセンターに会場を移して短時間の報告集会が持たれた。内田さんは国側反対尋問がとにかく悔しかったと心境を吐露された。それでもよく耐えられたと参加者みんなから労いの拍手と言葉が贈られた。今後の日程確認、新たに2人の提訴のあったことが報告されて午後4時報告集会も終了した。新規提訴の2人も第7民事部の係属で、第7民事部はこれで原告が7人となる。

内田1_convert_20151026093956

 翌日10月23日(金)、ノ―モア・ヒバクシャ近畿訴訟は今度は控訴審Bグループの高裁第7民事部(池田光宏裁判長)の第1回期日を迎えた。原告はすでに他界された梶川一雄さんの訴えを継承されている奥さんの梶川博子さん。梶川さんは22歳の時、広島市宇品対岸の鯛尾にあった陸軍暁部隊の施設で被爆(爆心地から7km)。その日の内に一度宇品まで救援入市。その後鯛尾で8月9日まで100人を超える被爆者救護にあたり、10日から12日までは広島市街中心部まで入市して救援、遺体処理にあたった。1986年(昭和61年)63歳の時心筋梗塞を発症、2008年(平成20年)85歳の時原爆症認定申請をしたが却下された。一審は昨年の5月9日第2民事部(西田隆裕裁判長)で勝訴判決を勝ち取ったが、不当にも国は控訴した。

 午前10時、202号大法廷で開廷。この日は第1回期日だがいきなり国側証人の尋問が設定された。証人は東京医科大学循環器内科の山科章教授。心筋梗塞の専門家ということのようだ。国側の女性代理人によって主尋問は始められた。証言台手許の資料、図、写真を示しながらのしかも専門用語がたくさん登場する質問、回答なので、正直言って傍聴席からは内容がよく理解できない。要するに梶川さんの心筋梗塞発症は加齢、喫煙歴、低コレステロール血症等が原因で原爆放射線の影響は関係する余地がないと証言したかったようだ。

 10時30分から反対尋問に移り、まず和田信也弁護士が尋問に立って「原爆放射線による循環器疾患への影響の研究実績があるのか」と証人に尋ねた。答えはノ―。シンプルな質問だが、これはとてもインパクトある尋問だったように思う。一審判決は救護被ばくも放射線起因性に関連するとしっかり評価し、心筋梗塞と低線量放射線被ばくとの関連も、しきい値のないことも認めた。だから勝訴したのだ。控訴によって一審判決を翻そうとするなら放射線被ばくとの関連についてこそ意見を述べなければならないと思うのだが、主尋問はそこには一切立ち入らず、心筋梗塞発症の一般論に終始した。そういう専門家、証人であることが最初に明らかにされた。さらに山科証人の提出している意見書の添付論文には、「喫煙リスクは禁煙後2年間で解消する」とする疫学調査結果報告のあることも指摘した。証人の主張する喫煙原因論と明らかに矛盾する。

 次いで反対尋問は塩見卓也弁護士が担当し、具体的なデータ、資料を示しながら証人への尋問を通じて放射線以外の危険因子の可能性を否定していった。梶川さんは昭和61年(1986年)の心筋梗塞発症を機会にキッパリと喫煙を止めている。以後の20年近く総コレステロール値等は正常値で維持されていた。禁煙前には確認されていなかった心臓の狭窄部位が平成19年(2007年)になって発症したり、正常な状態でバイパス手術された足の血管が同じく平成19年になって狭窄を生じている。最早過去の喫煙歴を心筋梗塞発症リスクに挙げることはできない。その他、最近の放影研報告では被爆放射線量が低コレステロール血症や高中性脂肪血症と相関関係にあるとする報告も、さらには放射線が腎臓病に関係している報告も示された。被爆者の心筋梗塞発症の危険因子について、原因を放射線以外の高血圧や高脂血症等他に求めるのではなく、被爆者に高血圧や高脂血、低コレステロール等があればそれ自体が放射線被ばくの影響によるものと認識すべきではないのか、との主張だった。

 法廷は11時20分に終了し、2日連続の報告集会は今回は大阪弁護士会館で行なわれた。原告の梶川さんは法廷にも、報告集会にも出席された。尋問されている内容がなかなか分りにくかった今日の法廷について、尋問を担当した塩見弁護士から解説があり、概ね理解できたのではないかと思う。国、国側証人の主張する梶川さんの心筋梗塞他原因について一つひとつ具体的な事実に基づいて反論否定されていった。残る原因は加齢だけだが、もしそうであれば高齢化した被爆者はみんな心筋梗塞になってしまう。塩見弁護士からは国側の提出してきた証拠画像資料の中には捏造に近い極めて疑わしいものもあったことも説明された。こんな姑息なせこいことまでやってくる国は許せない。それを証言する証人は医者の風上にも置けない、と批判の口調は激しさを増した。
 控訴審Bグループ高裁第7民事部の次回期日は11月27日(金)午前10時からと決まった。この日が結審となる可能性も高い。

 10月22日のとんでもない被告代理人の反対尋問(地裁第7民事部)のおかげで、翌日の国側証人登場(高裁第7民事部)のおかげで、はからずも私たちの怒りは高まり、気持ちは熱く高ぶり、ノ―モア・ヒバクシャ訴訟勝利への気勢はあがった。10月29日の武田武俊さんの控訴審勝利、東京地裁第一陣17人の原告全員の勝利をめざして、この機運を一層盛り上げていきたい。

塩見1_convert_20151026094105

ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟今後の日程
10月29日(木) 14:00 高裁A(第6民事部) 別館82号 判決(武田さん)
11月27日(金) 10:00 高裁B(第7民事部) 別管83号 結審予定(梶川さん)
12月 3日(木) 14:00 地裁第7民事部 806合 弁論(原告7人)
12月11日(金) 11:00 地裁第2民事部 1007号 弁論(原告5人)
2016年 1月20日(水) 11:00 高裁C(第13民事部) 202号 弁論(原告6人)
2016年 4月21日(木) 11:00 高裁C(第13民事部) 202号 弁論(原告6人)

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2015.10.26 Mon l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top

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