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意見陳述書
2015年10月5日
柴 田 幸 枝

1 私は、5歳の時に長崎で被爆しました。爆心地からは4.0キロメートルでした。10日か11日に両親と一緒に、父の同僚を探しに爆心地へと向かいました。爆心地から0.8キロメートルのところにある岩川町のあたりからは先に進むことができず、自宅へ引き返しました。その後も毎日5日ほど、父とともに朝から日没ころまで爆心地のあたりを歩きまわったことをおぼえています。

2 私は、爆心地を父と歩きまわった後、げりやはきけの症状が出て、髪の毛もぬけました。また、爆心地を父と歩きまわってから10日ほどたったころには、40度近くの高熱が出て,とても苦しい思いをしました。
  その後も私は病気がちで、この年まで70年間ずっと病気に苦しんできました。

3 私の病気は原爆のせいに違いないと思い、原爆症の認定申請をしたのが今から6年前の1月です。ところが、1年9か月も待った挙げ句に却下されたため、裁判を起こしたのが4年前の4月です。そして、判決で私の甲状腺機能低下症が原爆によるものだと認められたのが、今年の1月です。認定申請から5年経ってようやく、自分の病気が原爆によるものだと認められたのです。私と一緒に裁判をしてきた方の中で認められなかった方がおられたため複雑な気分でしたが、私の考えは正しかったんだとほっとした気持ちでした。

4 裁判所が認めたのだから控訴しないでほしいと祈るような気持ちでいたのですが、国はそんな私の気持ちをふみにじるかのように控訴しました。どうして、国は、裁判所の判断にしたがわないのでしょうか。どうして、国は、原爆投下の現場で起こったこと、私たち被爆者の苦しみを理解しようとしないのでしょうか。私は、腹が立って腹が立って仕方ありませんでした。そして、国に認めてもらうまでとことんまで闘おうという気持ちになりました。他の被爆者もみんな同じ思いだと思います。

5 この裁判は、私自身の問題だと思い、ほぼ毎回京都からこの大阪の裁判所まで足を運んできました。当初は夫も一緒に付いてきてくれたのですが、3,4年前に腰の骨を圧迫骨折してからは移動が不自由となり、最近はとても大阪まで来ることはできません。ですので、夫は判決も自宅で聞いたのですが、自分のことのように喜んでくれました。国が控訴したと聞いたときには、「こんなに苦しんでいるのに何で控訴するんや」ととても怒っていました。

6 私の前に裁判を起こした武田武俊さんが一審で原爆症を認めてもらったとき、その報告集会で私が武田さんに花束を渡しました。そのときの武田さんの笑顔は今でも忘れられません。でも、国は武田さんについても控訴し、武田さんは間もなく亡くなったとうかがいました。さぞかし無念だっただろうと思います。
  私も今年で75歳になりました。私の病気が原爆のせいだと国に認めてもらうまでは、死んでも死にきれません。
  裁判所におかれては、一刻も早く私を含む被爆者全員の原爆症を認定していただきますよう心よりお願いいたします。

(ご主人と一緒に参加されていた頃の写真)
DSCN2219_convert_20131217195655.jpg

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2015.10.08 Thu l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top

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