被爆二世の
ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟・裁判傍聴記(29)
被爆70年を原爆症認定制度抜本改革の年に!
「全面勝利をめざすつどい」で誓い合い
2015年6月12日(金)
 
 
6月6日(土)、午後1時30分より大阪グリーン会館において「ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟全面勝利をめざすつどい」が開催された。参加者は74人だった。つどいは、被爆医師・肥田舜太郎先生のビデオレター「肥田舜太郎先生インタビュー~ヒバクシャとして、医師として~」の上映から始められた。肥田先生は、全国で同じ被爆者を40年以上にわたって診続け、6000人にもなる人々と一生を付き合ってこられた。そのことによって初めて、理屈ではなく生で人のいのちの大切さを心底感じることができるようになった、とのお話しはとても印象的だった。被爆者へのメッセージとして、原爆放射線によって傷つけられたことへの憤りを根底に据え、経済的なこと以前に原爆被害をもたらした者たちの謝罪をこそあくまで求めていくこと、それが一番大切なことではないか、との言葉が贈られた。30分間の映像だったが、戦後から今日まで一貫して被爆者のいのちと暮らしに向き合って来られた肥田先生でしか語れない内容に溢れ、被爆70年の年に相応しい企画であった。

ビデオレター「肥田舜太郎先生インタビュー~ヒバクシャとして、医師として~」

記念講演は、日本被団協事務局次長である藤森俊希さんによって「被爆70年と原爆症認定訴訟」と題して行なわれた。70年前の被爆直後から今日まで、被爆者をめぐる状況や政治、被爆者運動の果たしてきた歴史から語られていった。被爆者は「自らを救う課題」と「人類の危機を救う課題」の二つのことを目標に運動をすすめてきて、それぞれの到達点とこれからの課題が具体的で分りやすく説明された。あらためて私たちの立つ歴史的な位置についての理解を深める機会となった。2015年NPT再検討会議は最終文書が合意されないまま終了した。このことに最も無念の思いを持ったのは被爆者の人たちだったのではないかと思う。日本被団協はこのことについて5月25日付でただちに声明を出し、藤森さんも触れられた。日本政府の消極的態度には隠すところなく批判が向けられ、被爆者は今日の事態を必ず乗り越えていくとの固い決意が示されている。また、高齢化の進む全国の被爆者、各地の被爆者団体のこともリアルに状況が話され、私たちのこれからの運動を考える上で学ぶことの多い講演だった。

藤森さん_convert_20150618201616

つどいは文化行事・原爆詩朗読が行われ、愛須勝也弁護団事務局長による「ノーモア・ヒバクシャ訴訟の到達点と課題」が報告され、全国原告団副団長の和田文雄さんの決意表明を受けて、これからの行動提起を確認して終了した。行動提起で確認したのは以下の4点だった。①引き続き傍聴支援を強める、②大阪高裁宛署名活動に集中的にとりくむ、③全国原告団・弁護団としてとりくんでいる「原爆症認定制度の抜本改定を求める署名」にとりくむ、④核兵器廃絶と脱原発社会実現にむけて創意・工夫あるとりくみをすすめる。

朗読_convert_20150618201635

和田さん_convert_20150618201651

 

翌週の6月10日(水)、午前11時からノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟第2民事部(西田隆裕裁判長)の裁判が行われた。近畿訴訟は4月16日(木)の控訴審以来2ヶ月ぶりの裁判だ。第2民事部はBグループとCグループ合わせて5人の原告の審理が同時進行中で、この日は6月1日亡くなられたCグループの原告Y・Iさん(神戸市の男性、74歳で逝去)についての意見陳述が行われた。既に法廷に立つことも困難だったY・Iさんは、4月23日に病床ベッドで本人尋問が行われており、その時の様子も含めて担当の杉野直子弁護士が意見陳述をまとめ、愛須弁護士が代読する形での陳述となった。
Y・Iさんは4歳の時疎開先の長崎で、爆心地から4.4キロメートルの自宅前で被爆。その日から翌日、翌々日にかけて父親に連れられて親戚や知人捜索のために市街地までの入市もした。4歳の目に焼き付いた惨状は生涯消えることはなかった。Y・Iさんは中学の時に神戸に戻り、被爆していることをひた隠しにして生き、体力の劣っていることを自覚して人一倍健康には気を付けた暮らしをしてきた。しかし、平成20年(2008年)、67歳の時前立腺癌を発症して手術。その後5年を経過して再発の心配はないだろうと思っていた矢先の平成25年(2013年)、今度は大腸癌、肝臓癌、胆管癌が見つかった。以来大変に辛い抗癌剤治療の毎日を続けてきた。どんなに辛くとも、故郷の長崎にもう一度行きたいという夢を持ち、大切な家族と出来るだけ一緒にいたいという思いをもって治療を頑張ってきた。しかし、夢も願いも叶うことなく74歳で生涯を閉じることになった。
Y・Iさんは前立腺癌発症の平成20年にも原爆症認定申請をしたが却下された。そして昨年平成26年に申請疾患を大腸癌と胆管癌として再び申請したが今回も却下された。Y・Iさんは「自分が被爆したのは間違いない事実であること、そのために様々な我慢を強いられる苦しい人生を余儀なくされてきたこと、そのことを裁判所に分ってもらい、原爆症と認定されて当然であること」を明らかにしたい一心で提訴に踏み切った。
今年4月にはホスピスに入院し、事態が容易でないと見られて直ちにその日に病床での本人尋問が行われた。その尋問もベッドで寝そべったままの状態で行わなければならないほどだったが、Y・Iさんは気丈に最初から最後までしっかりと質問に答えきった。原告代理人である杉野弁護士が病室を立ち去る時Y・Iさんから「ありがとうね」と声をかけられたことがとても印象に残っている、と紹介された.
Y・Iさんは健康には特別気を使ってきた人なので生活習慣病などはあり得ない。また癌が様々な場所に多発的に発症した事実も含めて、本人の被爆状況、健康状態、症状等々からして相当量の放射線量を浴び、申請疾患は原爆放射線に起因することは明らかだと主張された。しかし国は依然として理論上も実際上も破綻している認定基準にしがみつき、形式的・機械的な適用で却下をした。Y・Iさんの実態に即した判断が行われておれば、生存中の原爆症認定は十分可能だったはずで、認定を待たずにY・Iさんが亡くなったことは無念でならないと訴えられた。
近畿訴訟だけでも提訴後に亡くなられた原告の係争は5人にのぼる。今年はもう被爆70年。速やかな認定がなされなければY・Iさんと同じように無念の思いを抱いたまま亡くなられる被爆者はこれからも後を絶たない。裁判官に対して、判決を待つことなく亡くなってしまう原告がこれ以上出ないよう迅速に審理をすすめるよう求めて、意見陳述は締められた
大阪弁護士会館に会場を移してこの日の報告集会が行われた。第2民事部Bグループの原告、淡路登美子さん、高橋一有さんも出席された。最初に愛須弁護士から裁判後の進行協議結果が報告された。Bグループ2人、Cグループ3人の原告に対する弁論状況の報告、裁判所構成の変更(右陪席も左陪席も交代)に対してあらためて被爆の実相などそもそものところから丁寧に説明していく必要性があること、第2民事部次回期日が9月9日に決まったことなどがその内容だった。
報告集会では、5月20日に行われた広島地裁判決について質問が出され、その画期的な意義についての説明がなされた。従来、申請疾患が白内障だけの場合、原爆放射線起因性の証明がなかなか難しくて提訴することも容易ではなかった。今回広島の原告、弁護団は勇気をもって提訴に踏み切った。広島地裁も早期の判断が必要だとして、白内障だけを分離して判決を行い、4人の原告の内2人に原爆症を認めた。これは大変大きく意義のある優れた判決で、全国の人たちを励ますこととなった。白内障単独でも原爆症が認められたことは、厚生労働省に大きなショックを与えたのではないか。
最後に尾藤廣喜弁護団幹事長から以下のようなまとめが行われた。繰り返し語られているように今年は被爆70年、被爆者の平均年齢は80歳を超えた。それでも多くの被爆者が未だに裁判で争わなければならないと言うのは、国にとって恥ずべき事態、重大な国政問題だ。日本被団協は今各政党との懇談会をもって原爆症認定制度抜本改革を早期に解決しようと奮闘されている。来週6月18日に院内集会も予定されている。政治レベルでの運動をすすめつつ、いずれにしてもノーモア・ヒバクシャ訴訟を勝ちきっていくことが、情勢を切り開いていく上で極めて重要であることに変わりはない。広島の素晴らしい判決に引き続いて頑張っていこう。被爆70年の年を原爆症認定制度抜本改革の年に、そしてそれを機に悲願の核廃絶にも向っていこう。
ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟は、来月7月7日(火)武田武俊さんの控訴審の結審を迎える。重大な局面だ。よびかけられている「公正な判決を求める」高裁宛署名運動を思い切って伸ばし広げていき、暑さの増す季節を頑張っていこう、と確認してこの日の報告集会を終了した。
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2015.06.18 Thu l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top

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