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意見陳述
 
1 私は、昭和18年1月5日生まれで、被爆当時2歳と7か月でした。母親や親戚との4人で、長崎市銅座町の家に住んでいた私は、母の親族が水産業に従事し、2つの船団を有していたことから、その当時、毎日のように、長崎駅裏側にある漁港や水産卸売市場である長崎魚市場などに連れられていました。
2 忘れもしない昭和20年8月9日、私は、長崎市銅座町にある橋で近所の子どもたちと遊んでいた際に被爆しました。当時2歳の私は、光線を見たことだけは、はっきりと記憶しています。そして、私は、近くにいた母親と一緒に自宅まで逃げ帰りました。
  私が母などから聞いた話によると、被爆直後、私のくちびるから出血(上唇の右側)をしていたことから、止血の処置をしてもらったとのことです。後年になってですが、傷口の中に何らかの異物が入ったままの状況にあることに気付きましたが、それは今も続いています。
  被爆直後、私は、母に背負われて、日見峠の方に居住する親戚を訪ねたそうですが、その際、皮が剥けた馬らが坂を登れず倒れているのを見たそうです。また長崎魚市場も被爆後すぐ再開に向けて動き出したことから、私も、家族の者により、魚市場付近まで連れられていたことは間違いないと思います。
  被爆直後の急性症状については、私は当時2歳であったことから記憶していません。もっとも、私は、被爆後体が弱くなり、下痢や鼻血などに悩まされるようになりました。小学生の頃まで下痢を繰り返したことや、鼻血が止まらず病院に通い、注射を受けたことを記憶しています。
3 私の実父は、ビルマにて戦死しました。実母はその後再婚しましたが、義父は義父と実母との間にできた2人の子と私を比較し、私に対してのみ、暴力を振るうようになりました。私は、その後、悔しい思いから勉学に励み、長崎大学教養学部附属中学校に合格し、進学しました。同じ小学校300名の卒業生のうち、その中学校に合格したのは私だけでしたので、相当の難関だったと思います。
  しかし、私が中学校2年生の時に義父が結核で入院し、私が中学校3年生の時には母が結核で入院することとなり、私達家族は路頭に迷いました。私は、何とか附属中学校を卒業しましたが、進学はせず、米屋で住み込みで働きながら定時制高校に通い、弟2人は施設に入ることになりました。
  その米屋には、私も含めて3人の同年代の同僚がいました。しかし、私一人が夕刻に仕事を終え、定時制高校に通うことの妬みもあり、その同僚らとの折り合いがあわず、結局私は米屋を追われ、行く当てもなく、母方の叔母を頼って大阪に行くこととなりました。
4 大阪の叔母の家での長居は許されず、私は、その後一人で生活を始め、必死になって働きました。結婚もし、30歳を過ぎてからようやく生活が安定しましたが、その間の苦労、つまり、貧乏を思い出すのは今でも嫌です。義父からの執拗な暴力、米屋で毎日担がされた60キロの米俵、その横で涼しそうに高等学校に通う同世代の人々、大阪での極貧生活、思い返せば苦労の連続でしたが、ようやく人並みの生活を手に入れることができたのでした。
  しかし、そのような平穏な生活も、長続きしませんでした。私は、平成5年、50歳の時に心筋梗塞を発症し、入院を余儀なくされ、経皮的経管冠動脈形成術を受けました。さらに、その後、平成15年、60歳の時に再び激しい胸痛に襲われ、医誠会病院に搬送され、冠動脈バイパス手術を受けました。私は、現在でも医誠会病院に定期的に通院し、経過観察を行うとともに、血圧を下げ、血液の流れを良くし、心臓の動きを改善するための投薬治療を受けています。
5 実父を失い、苦労を重ねたことの根本の原因は戦争にあり、私は、小さい頃から戦争を恨んできました。加えて、原爆により被曝しているという事実は、私に対して漠然とした健康不安を与え続けました。子どもが生まれる時、被曝による子どもへの影響を心配したのを今でもよく覚えています。昭和48年には、母の勧めもあり、被爆者健康手帳を取得しました。
  そうした健康に対する漠然とした不安が、50歳の私に、現実のものとなって現れたのです。私は、改めて、戦争や原爆を恨みました。戦争や原爆さえなければ、私は、実父母と暮らし、勉学を続けられていたでしょうし、若くして心臓の病気に悩まされるようになることもなかったでしょうし、何より人生が大きく変わっていたように思います。
6 私は、平成24年11月27日付で、私が発症した心筋梗塞について、原爆症の認定申請をしましたが、厚生労働大臣は、平成25年3月15日付で、その申請を却下しました。さらに、私は、その却下処分に対し、平成25年4月5日付で異議を申し立てたのですが、厚生労働大臣は、平成26年7月14日付で、その異議を棄却しました。私に対する却下や棄却の処分を行うに際して、私についてのどのような調査がなされたというのでしょうか。私は、まずその点を知りたいと強く思います。
  私が原爆症の認定申請をしようと考えたのは、放射線の影響についての漠然とした健康不安を抱えながら生きてきたことに加え、被爆者団体の方から、私の被爆距離と病名であれば、原爆症として認定されるとのアドバイスを聞いたからです。私は、国の認定基準についての詳しいことは分かりませんが、繰り返し被爆者が訴訟をせざるをえず、それにもかかわらず、一向にこの問題が解決しないまま被爆者が振り回されている現状に、強い憤りを感じます。
7 私は、現在72歳です。あと数十年すれば、被爆者は殆どいなくなるでしょう。70歳を超え、心臓に病気を抱える被爆者の私が、今に及んで、国を被告として、何故にこのような訴訟をしなくてはならないのでしょうか。勉学を積まれた皆様には、そのことを真剣に考えていただきたいと思います。
  私自身が生き、経験してきたことからしても、私が発症した心筋梗塞に、原爆放射線が強く影響していることは間違いないといえます。そして、私の病気が原子爆弾による放射線の影響ではないと断言される方がいるとすれば、一度、私と同じ体験をして頂ければ、私たち被爆者が抱えてきた苦しみを少しは分かって頂けるのではないかと思います。
  戦争も原爆も絶対にあってはならない。私は、生きている限り、このことを強く訴えていきたいと思います。

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2015.03.18 Wed l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top

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