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被爆二世の
ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟・裁判傍聴記(25)
地裁では二人の原告が氏名を公表して頑張り、高裁では国の証人申請を徹底批判!
2014年の奮闘を2015年度認定制度抜本改革実現に結実させていこう!
2014年12月15日(月)
 
 
ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟はこの12月、3つの裁判が連続して行なわれた。
まず12月10日(水)は午前11時から、大阪地裁第2民事部(西田隆裕裁判長)でBグループの原告4人の中の一人、高橋一有さんによる意見陳述が行われた。高橋さんは現在73歳、兵庫県三木市在住で、4歳の時、長崎で被爆した。高橋さんの生まれ育った自宅は爆心地から1kmの長崎市内竹ノ久保町にあった。原爆投下時は市内から遠く離れた田舎にいたが、8月12日、祖母と叔父を探すため母親に連れられて自宅跡まで入市した。4歳という年齢だったので断片的な記憶しか残っていないが、街並みや、景色が一変していたことなどははっきり覚えている。一度田舎に引き上げ、終戦後まもなく竹ノ久保町に帰りそこで暮らすようになった。被爆するまでの高橋さんは元気いっぱいのやんちゃ坊主だったが、被爆後はひ弱な体となり、運動会や遠足にも参加できない子となった。大人になってからも疲れやすい体の状態は続いた。原爆に負けまいと一生懸命働き、家族を支えてきたが、平成10年、57歳の時に心筋梗塞を発症し手術を受けた。定年を前に会社も止めざるを得なかった。その後も狭窄を繰り返し、何度も救急搬送され、入退院を繰り返す毎日を送ってきた。
高橋さんの母親は幼い高橋さんを連れて入市したことをいつまでも悔やんでいた。父親は差別されることを心配して、母子が被爆者手帳を取得することを長く許さず、そのことで夫婦喧嘩の絶えなかったことも辛い思い出としてあった。高橋さんの手帳取得はやっと平成元年になってからだ。
高橋さん自身も、自分が被爆者であることは、娘にも周りにもずっと隠してきた。そのため今回の提訴にも随分と迷いがあった。しかし、黙っていると原爆の被害はなかったことにされてしまうではないかと自身に問いかけ、このまま諦めてしまうわけにはいかない、自分の原爆被害の苦しみは裁判所にきちんと認めてもらわなければならない、と強く思い返し、提訴への決断をした。そこまでに至る心の内の葛藤とそれを克服してきた心情を高橋さんは意見陳述の中で明らかにした。
原爆放射線と心筋梗塞との関係は、裁判では何度も認められてきているのに、国はいつまでも認めようとしない。高橋さんは国の姿勢を強く批判し、裁判所には被爆者の苦しみをしっかりと受け止めて欲しいと訴えた。
第2民事部は先行してAグループの審理が今年7月11日に結審し、来年年明け1月30日いよいよ判決の日を迎える。裁判長は今日と同じ西田隆裕裁判長だ。判決言い渡しを前にしたこの機会に、その裁判長と陪席裁判官に対して、ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟の原告全員の思いを、高橋さんが代表してもう一度しっかりと訴える、そんな様相の意見陳述となった。
高橋さんは9月26日の第2民事部の裁判傍聴とその後の報告集会に初めて参加されている。その時のことを本傍聴記(23)(2014年10月2日)ではT・Iさんというイニシァルで紹介した。実名で紹介するのにはまだ躊躇されるところがあったからだ。今回、証言台に立ち、しっかりと意見陳述され、以後は実名を明らかにすることを決断された。

高橋一有さん_convert_20141215205057
 
2日後の12月12日(金)は午前10時より、国によって控訴された武田武俊さん(故人)の2回目の控訴審(大阪高裁第6民事部・水上敏裁判長)と、大阪地裁第7民事部Bグループの裁判が連続して行われた。武田さんの控訴審では国は伴信彦という人物の証人採用を求めてきており、そのような証人採用は一切必要なく、被控訴人側(被爆者側)は断固として反対する旨の意見陳述をすることが、この日の主な内容となった。意見陳述は弁護団幹事長の尾藤廣喜弁護士によって行われた。国は武田さんの控訴に際して、「専門家」を名乗る35人連名による意見書を提出しているが、それに対しては前回の弁論で徹底的に批判された。にも関わらず国は今度はその35人の中の一人を証人として採用したいと申請してきた。理由は、相も変わらず「国際的な科学的知見」に基づく放射線被ばくのリスク評価などを明らかにするためだとされている。尾藤弁護士は、原爆症認定訴訟における放射線起因性の判断については、2000年の長崎原爆松谷訴訟最高裁判決以来今日まで多数の判決において明確な判断基準が示されており、既に確立されていることを述べ、具体的事実に基づいて丁寧に指摘していった。その上で今回のような証人申請は、20年来の主張の単なる蒸し返しでしかなく、訴訟遅延を目的としたもので、そのような主張自体認めることはできない、と厳しく批判した。
証人申請の取り扱いは、この日は結局留保となり、引き続き双方の弁論を続行するという訴訟進行の確認がなされた。しかし裁判長は、次回期日において控訴人側の証人申請は却下する場合もあるので、その可能性も含めて次の主張は準備をするよう、と敢えて明言した。次回期日は4月16日となったが、この日をもって弁論終結となる可能性も出てきた。

DSCN2470_convert_20141215205838.jpg
 
控訴審の後、午前11時から地裁第7民事部(田中健治裁判長)Bグループの裁判が行われた。第7民事部Bグループの原告はこれまで4人だったが、10月24日付で5人目となる新たな提訴が加わり、その原告である宮本義光さん(76歳、大阪市城東区在住)の意見陳述が行われた。宮本さんは脳梗塞の影響のため滑らかにはしゃべることができない。そのため当初は意見陳述することに随分と躊躇があったようだが、そのことを乗り越えての法廷だった。最初に「途切れ途切れになるかもしけないけどよろしく」と断った上で陳述は始まり、時間をかけながらも、しかし最後までしっかりとした訴えが行われた。傍聴席の奥さんから見守られながらの陳述だった。
宮本さんは7歳の時、長崎市稲佐町の友達の家で被爆した。原爆投下の翌日、本原町にある母親の実家の様子を見るために、父、兄、妹と一緒に4人で爆心地付近を通って歩いて行った。途中、子どもを抱いたままの母親の死体、腰かけたままの黒こげになった死体、農道脇の水路にびっしりとし埋まっている人々のことなど記憶は鮮明に残っており、あの悲惨さは実際に見たものにしかわからないと訴えられた。家族みんなで10日程母の実家近くの防空壕で過ごし、そこでも何の手当ても受けられないまま亡くなっていく多くの人々の無残な姿を目の当たりにした。幼い時のこの辛い体験は宮本さんの人生に大きな影響を与え、今でも雷などを聞くと、辛い思いをすることが多いという。宮本さんと一緒に被爆した兄は胃がんのため41歳の若さで亡くなっている。宮本さんも59歳で胃がんを発症し、その後も大腸ポリープ、脳梗塞、狭心症と多くの病気に見舞われてきた。
分りやすく素直な言葉で語られる宮本さんの陳述からは、多くの被爆者が実際におかれてきたことやその心情を伺い知ることができる。すなわち、「胃がんになった時、すぐに原爆症の申請をすれば認定されていたかもしれない。しかし、どこでどういう手続きをすればいいのかまったく分らなかった。ほとんどの被爆者が同じように分らないままに申請していない。これでは何のための原爆症の制度か」、「あとになって、私は狭心症で申請した。しかし、理由も分らず却下された」、「原爆によって健康な身体を奪われ、兄や祖母、いとこなど大切な人を奪われ、大切なふるさとも壊された。その上、病気の身体で裁判をするのは、とても大変なことだ」。
宮本さんは、つらい思いをしてきた被爆者には誰にでも原爆症が認定されるよう制度を考え直してほしいという思いと、正当な判決の行なわれることを訴えた。宮本さんもこの日をもって実名で紹介されることを決意された。
 
12月10日、12日共に裁判終了後の報告集会が大阪弁護士会館で行われた。原告としての意見陳述をされた高橋さん、宮本さんは共に報告集会にも出席して挨拶され、参加者から労い(ねぎらい)と激励の拍手が送られた。原告宮本さんを担当する小瀧悦子弁護士からも、出廷すら決して容易でなかった宮本さんのご苦労などについて紹介された。

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 弁護団事務局長の愛須勝也弁護士から次のようなノーモア・ヒバクシャ訴訟の全国状況が報告された。国側が提出してきた「専門家」35人連名の意見書に対して、全国の医師団・弁護団が集まって集団的に検討し、これに反論する意見書を泊まりがけで作成した。すでに大阪高裁には証拠として提出しており、これで国の連名意見書の信頼性はまったく失墜することになった。全国のノーモア・ヒバクシャ訴訟の最先端が、今、大阪高裁での武田さんの控訴審に集中している。訴訟体制も、双方の意見書や証拠内容も、そして争点から見てもそういう状況となっている。この大阪控訴審で国側の意見を徹底して打ち砕くこと、そして勝利していくことの意味が非情に大きくなっている。2015年は1月30日の第2民事部判決に続いて、広島でも、東京でも判決が予定されている。新しい年を運動の大きなピークを迎える年としていきたい。
報告集会ではその他、次のことなども報告された。今後さらに2人の被爆者の追加提訴が予定されている。1月30日判決に向けた署名が3,257筆となり、12月2日(火)第2民事部へ提出された。1月30日は判決前の10時20分、裁判所前若松浜公園集合で集会を行なう。年明け1月15日には厚生労働相との定期協議が予定されており、こちらもたくさんの傍聴参加で見守っていこう。また2015年度のノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟支援の集いは6月6日(土)に予定することなど。
最後に藤原精吾弁護団長より、世界の核兵器廃絶運動においてもノーモア・ヒバクシャ訴訟運動が担っている重要な役割をあらためて思い、新しい年のとりくみがさらに強まるようにしていこうと、と呼びかけられて、今年最後の報告集会は閉じられた。

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 2014年度のノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟は、2つの判決、3回の証人尋問、10回の口頭弁論が行われた。1回の出張尋問を除いて毎回の裁判に多くの支援のみなさんが傍聴に駆けつけ、集会に参加し、署名運動も行なって、原告のみなさん、弁護団と一緒に闘ってきた。
2つの判決はいずれも勝訴、6人の原告全員が勝利することができた。個々の原告の訴えが認められただけでなく、国が昨年末強引に策定した原爆症認定新基準が依然として誤りであることも実質的に裁定されることになった判決だった。しかし国は、一連の司法判断に従うことなく、それどころか、2009年8月6日の合意などもはやなかったかのように、すべてを振り出しに戻し、一から主張をやり直そうとする態度でのぞんできたのもこの一年だった。大阪、熊本地裁の5人の原告に対する控訴、35人の「専門家」連名意見書の提出、大阪地裁第2民事部Aグループの結審直前になっての“掟破りの”主張立証、同じく第7民事部Bグループでの総論部分についての求釈明申立書提出、そして大阪控訴審での「専門家」証人申請等々だ。
こうした国側の動向の背景に、国の財政政策に基づく社会保障制度の見直しから、原爆症認定制度も例外とはしない意思が働いていること、福島原発事故被災者の救済と防護対策に影響が及ばないようにしようとする抑制策が深く結びついていることを、様々な機会に繰り返し確認してきた。そして、弁護団の精力的な活動、医師団の積極的な行動、原告と支援のみなさんの粘り強い運動があって、訴訟の場における国側の打つ手には一つひとつ厳しい反撃が加えられてきた。尾藤弁護士の言葉を借りれば、「国の訴訟遅延策・引き延ばし策の目論見は今や(もろ)くも崩れ去りつつある」状況となってきている。
2014年のみんなの頑張りを、被爆70年の節目となる2015年度には、原爆症認定制度抜本改革の実現に結実させていきたい。そのための第一歩を、年明け2015年1月30日第2民事部判決の全員勝訴でスタートさせていきたい。
 
次回以降の訴訟日程は以下の通りに決まった。
 
ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟今後の日程
2015年
1月30日(金)
 
11:00
 
地裁第2民事部 1007号
Aグループ
判決言い渡し
 
10:20
裁判所前・若松浜公園
集合・集会
3月10日(火)
11:30
地裁第7民事部  806号
Bグル―プ弁論
3月11日(水)
11:00
地裁第2民事部 1007号
Bグル―プ弁論
4月16日(木)
13:30
高裁第6民事部 別館81号
Aグループ弁論
6月 6日(土)
午後
大阪グリーン会館
訴訟支援のつどい

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2014.12.15 Mon l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top

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