上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
被爆二世の
ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟・裁判傍聴記⑮
大阪地裁第2民事部の次の判決も5月9日(金)に確定!
厚労省の認定基準改悪の意図を許さず、国民世論を力に抜本改正をめざそう!
2013年12月16日(月)
 
 
ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟は12月11日(水)の第2民事部翌12日(木)の第7民事部と2日連続の裁判となった。
11日(水)の第2民事部(西田隆裕裁判長)は10:00開廷。この日はまず二人の原告についての最終意見陳述が行われた。二人の原告は2009年から行なわれてきた原爆症認定義務付け訴訟の最後の原告となる梶川一雄さん(兵庫県伊丹市)とE・Hさん(神戸市)。義務付け訴訟は、当時認定審査が長期に渡って貯め置かれ、大量の未審査状態にさらされていたことに対して、その不当性を訴え早期の認定を求めた裁判だった。提訴した直後に申請は不当にも却下されそのため処分取り消し訴訟に切り替えて係争されてきた。やむを得ず義務付け訴訟を提訴せざるを得なかったほど審査の滞留は長く、そのことを象徴するように二人の原告は共に既に他界されており、ご遺族が承継された中で今日の結審を迎えた。
意見陳述は代理人弁護士を代表してまず今西雄介弁護士から行なわれた。今西弁護士は原爆症認定集団訴訟のもたらした結果、新しい認定基準とその実態、義務付け訴訟の提訴に至る経緯について述べ、今現在も被爆の実態と被爆者の切実な要望に向き合うことなく、被爆者を弄んでいる国の態度を厳しく批判した。次いで国は被爆者に対してだけでなく、司法判断の到達点をも無視していることを強く批判した。司法判断と行政実態との間に乖離があるからこそその解消を目的に設置された原爆症認定制度の在り方検討会だが、その結論は、厚生労働省の意に沿って、司法判断に従うことなく引き続き現行制度を維持しようとするものになっている。司法判断を無視、軽視して憚らない国の態度を断罪した。そのため、原告の却下処分取り消しだけでなく、国家賠償も明確に命じられるよう求める陳述であった。
もう一人坂本知可弁護士からも意見陳述が行われた。坂本弁護士は原告の一人E・Hさんの担当だが、E・Hさんに下されている却下処分理由の要医療性の否定について、国の判断がいかに誤っているかを中心に陳述した。経過観察という言葉を要医療性の否定に結び付けようとすることの重大な誤りは、今年9月4日の大阪・西淀病院副院長久英明医師の証言で詳細に示されている。そのことも参考にしながら、医療行為上の経過観察の一般的重要性、E・Hさんの術後の経過観察がいかに重要であったか等々の事実をもう一度丁寧に明らかにしていった。E・Hさんの認定申請は5年前の2008年(平成20年)だがこの時既に85歳。申請審査の長期間放置とその上に重ねられた却下処分通知が高齢と病態のE・Hさんに与えた衝撃は尋常ではなかったはずだ。坂本弁護士はE・Hさんの被った精神的被害をも十分に考慮し、国家賠償も含めて認められるよう訴えた。
西田裁判長は二人の原告についての弁論終結を宣言し、2014年5月9日(金)11:00に判決を言い渡すとした。
二人の義務付け訴訟の結審に引き続いて、この日は2011年(平成23年)と2012年(平成24年)に提訴されていた却下処分取り消し訴訟の3人の原告の本人尋問が行われた。
午前中最初に証言台に立ったのはN・Mさん(74歳の男性、兵庫県川西市在住)で、担当の和田信也弁護士によって主尋問が行われた。N・Mさんは一言一言確認するようにしっかりとした口調で証言をされた。N・Mさんは5歳の時、広島市大芝町の自宅、爆心地からの距離2.4kmで被爆した。爆風で5m以上も吹き飛ばされ、全身に灰のようなものを浴び、自宅も隣の大芝小学校校舎も全壊したことを覚えている。近所のおばさんに連れられて自宅から北方向のキリスト教修道院まで避難し、そこでお母さんと再会、大勢の被爆者にまみれて共にしばらくを過ごした。2~3日後自宅跡に戻って父親と再会、広島駅方向を経由して青崎まで歩き、最後は仁保町・小磯にある社宅に当座の落ち着き先を確保した。被爆の翌日全身に赤紫色の発疹が出たのを覚えている。

DSCN2214_convert_20131217195326.jpg


N・Mさんは1981年(昭和56年)、41歳の時に狭心症と診断された。肉食を好まず、酒も煙草も一切嗜まない人だったのに。仕事を中断し収入の途絶えることが許されない経済的事情から1990年(平成2年)まで手術ができないままにきた。その他にも白内障と診断され、大腸ポリープの手術を6回も受けるなどしてきている。N・Mさんの父も、母も、姉も被爆の影響ではないかと思われる病気で比較的若い年齢で亡くなっている。N・Mさんと一緒に被爆した弟さんも狭心症を発症し、昨年心筋梗塞で亡くなっているが、それを語るN・Mさんは嗚咽をこらえることができなかった。
N・Mさんは2008年(平成20年)8月に狭心症の原爆症認定を申請したが2010年(平成22年)10月に却下処分された。狭心症自体を認定対象としないのか、爆心地から2.4km被爆を放射線影響のしきい値以下としているのか、いずれにしても被爆の実態を無視した不当な処分だ。
最後にN・Mさんは裁判所に対して、心臓の発作に怯えながら不安な毎日を送っていること、是非とも認定を認めていただきたいことを訴えた。
国側の反対尋問はごく短いもので、N・Mさんも分らないものは分らない、覚えていないものは覚えていないとハッキリと答え、尋問は終了した。
2人目の原告もイニシァルは同じN・Mさんだが、70歳の女性で神戸市在住。N・Mさんの尋問は当初午後からの予定だったが、一人目の反対尋問が極めて短時間で終わったため、急遽繰り上げて午前中に行なうことになった。主尋問は担当の野口善國弁護士によって進められた。N・Mさんは被爆当時2歳であり、自身の被爆体験の記憶はなく、ほとんどが両親、祖母から聞かされたものによる。N・Mさん一家は当時広島市仁保町大河(爆心地から3.0km)に住んでいて、自宅で母親の背に負われている状態で被爆した。父親はこの日勤労作業で外出していた。その父親を探して、母親はN・Mさんを背負い、兄の手を引いて原爆投下直後の市内を歩き回った。大怪我と火傷を負った父親は比治山橋あたりで見つけ出すことができた。母親はさらに母親の姉と妹(N・Mさんさんの伯母さん達)の安否も気遣ってそれぞれの住んでいた地域まで、同じようにN・Mさんを背おい、兄の手を引いて探し歩いた。地域は吉島町、鷹匠町(爆心地の直近)にまで及ぶ。
N・Mさんは急性症状で脱毛したことを聞かされている。そしてそれまでは丸々と太った元気な子だったのに、被爆後は風邪を引きやすく、扁桃腺が腫れ、下痢をよくする子になった。大人になってから、特にめまい、頭痛、下痢が頻繁に生じるようになり、年を追うとともにその激しさ、苦しさは増していった。2005年(平成17年)、異常な体のむくみが生じて医者にかかり、甲状腺機能低下症と診断された。
N・Mさんは2009年(平成21年)9月、甲状腺機能低下症の原爆症認定を申請したが、2010年(平成22年)12月に却下された。異議申し立ても行なったがそれも2012年(平成24年)2月に棄却された。担当医師からは治療のためのチラ―ジンを一生飲み続けなければならないと言われているのに、却下処分通知には「一日も早く回復されることを祈っています」と書いてあった。とても白々しくて腹が立ったと、その時の率直な気持ちを語った。認定はもう諦めようかとも思ったが、体力のある今の内ならまだ頑張れるのではないかと思い直し、提訴に至った。N・Mさんは最後に、もし原爆にあっていなかったらこんな病気になることもなかったと思う、私達はいつまで頑張らなければならないのかと、裁判長に訴えた。
2歳の時の被爆だから体験記憶はなく、このため反対尋問でいろいろ聞かれても「覚えていません」、「聞いていません」と答えるしかない。その点ハッキリとしていて、反対尋問は一人目のN・Mさんの時よりさらに短く、尋問とも言えないような内容で、正午前には終了してしまった。

DSCN2218_convert_20131217195518.jpg
休憩を挟んで13:30からは今日3人目の原告柴田幸枝さん(73歳、京都市伏見区在住)の本人尋問が、担当の諸富健弁護士の主尋問によって行われた。柴田さんはいつもご夫婦でノーモア・ヒバクシャ訴訟の傍聴に参加されており、この日もご主人が足の不調をこらえて傍聴席にあり、静かに柴田さんの尋問を見守られた。
柴田さんは5歳の時、長崎市西小島町(爆心地から4.0km)の自宅の隣家で被爆した。たまたまこの日会社を休んでいた父親に助けられ、一緒に10mほども吹き飛ばされたことが記憶にある。三菱長崎兵器製作所の社員であった父親は原爆投下の翌日、近所に住む同じ会社の人の安否と会社の状況を確かめに爆心地方向に向かった。この時柴田さんも背中におわれて同行した。爆心地に近づくほど被災状況はひどく、職場の大橋工場までは行き着くことができず、岩川町(爆心地から0.7km)辺りで引き返した。人も物もすべて黒焦げになってしまっている惨状、「水を、水を」と求めてくる人々の様子など、5歳の柴田さんにはとても正視できないほどの怖くてつらい回りの状況だった。次の日以降も同じように爆心地付近を父親と一緒に歩きまわった。柴田さんは被爆直後から、下痢、吐き気、脱毛、40度近い高熱と、典型的な急性症状を発症している。
柴田さんは元気な女の子だったが、被爆してからは常に体のだるさを感じ、風邪を引きやすく、高熱、鼻血もよく出すようになり、病気がちな子ども時代を過ごすことになった。成人後も体のだるさは続き、年を追ってその辛さは増していった。30歳代半ばには異常な寒気、汗をかいたりもするようになり、ひどい目眩で倒れ込むこともあった。1995年(平成7年)55歳の時脳梗塞と診断され、以降、高脂血症、大腸ポリープ、骨粗鬆症、緑内障等を次々と発症していった。
2003年(平成15年)甲状腺機能低下症、その後両白内障と診断され、2009年(平成21年)1月原爆症認定申請をした。しかし2年近くも待たされた2010年(平成22年)10月になって却下処分を受けた。柴田さんの父親は脳軟化症と肝臓の悪化で、母親も肺がんと大腸がんで亡くなっている。認定はもう諦めようかとも思ったが、自分の病気が原爆症だと認定されれば、両親の病気、死も原爆が原因だった証しになるのではないかと、親への強い思いが提訴への後押しになったと、その時の心情を吐露した。
柴田さんは、68年前のあの時のことを思い出すのがとてもつらい、そして福島第一原発事故による放射能汚染のことも原爆被災と重なってとても他人事とは思えず、涙があふれると語る。戦争への怒り、何も責任をとろうとしない国に対しての憤りを、静かな口調でとつとつと語っていった。
裁判所に対して柴田さんは、体の許す限りは夫婦一緒になって最後まで裁判の行く末を見守りたいと思っている、是非とも公正な裁判をお願いしたいと訴えた。
被告国側からの反対尋問は柴田さんに対しても短時間で終わり、14:20この日の尋問をすべて終了した。

DSCN2220_convert_20131217200052.jpg
前回10月23日の裁判での3人の原告に対する国側反対尋問もひどかったが、今回はその上にさらに輪をかけたようなひどさだった。もはや国側には原告に対してあらためて問い質すことなど何もない。裁判を形式上維持するためだけに被告代理人席を埋め、若干の質問をしてみるだけの、およそまともな審理とは言えない態度だ。「司法判断と行政とは役割が異なるため、その乖離を解消していくことなどはできない」などと平然と開き直る、歪んだ厚生労働省行政をそのまま体現した姿だ。残された生命の一日一日を懸命に生きようとしている被爆者と原告に対して、そのことに真摯に応え最良の判断が与えられるよう精一杯検討されている裁判所に対しても、許すことのできない冒涜ではないか。
いつものように会場を大阪弁護士会館に移して報告集会が行われた。証言台に立つことによる相当な緊張と疲れからN・MさんとN・Mさんは先に帰られ、原告の参加は柴田さんご夫妻だけとなった。主尋問を担当した3人の弁護士からそれぞれの感想と、一日も早い勝利判決をお届けしたいとの決意が述べられた。柴田さんはご夫妻共々に支援に対するお礼と今後もよろしくとの挨拶を述べられ、参加者全員からの拍手が贈られた。

DSCN2219_convert_20131217195655.jpg

一週間前から全国的なとりくみが行われており、各とりくみ参加者から概要の報告が行われて今日の状況の共有化がはかられた。12月3日(火)には衆議員第2議員会館を会場に「原爆症認定制度の抜本改正を求める院内集会」が200人を超える参加者によって行なわれた。3日後の会期末を控え、最大焦点の秘密保護法案審議が最も緊張している時と重なり、議員の参加と出入りが慌ただしい中での認定制度抜本改正の訴えとなった。同じ日の午後には「ノーモア・ヒバクシャ訴訟全国原告団結成のつどい」が開催された。全国の原告は108人となる。団長に東京訴訟原告団の山本英典さん、副団長に近畿訴訟の和田文雄さん、広島訴訟の八木義彦さんが選ばれた。

翌日12月4日(水)は厚生労働省の「第26回原爆症認定制度の在り方に関する検討会」があり、この日が最後の検討会となった。報告書は、結局は現行制度を変えることなく、司法と行政との乖離解消はできないとする内容を多数意見として表し、当初の検討会設置目的にまったく背いた内容でまとめられた。そればかりか、非ガン疾病についても外形的な標準を定めるべきとか、要医療性の判断の見直しなど、認定基準の後退が懸念される内容まで書き込まれた。日本被団協を代表して検討会委員に参加している田中煕巳事務局長は最終報告書案に対しても30か所に及ぶ修正意見を対案として示し被爆者の意見を主張したが、それらは併記はされてもほとんどが少数意見として取り扱われた。報告書は、田中事務局長が反対の意思表示を明確にした上でとりまとめとされた。検討会終了後には直ちに、日本被団協、弁護団、原告団連盟の抗議声明が出された。
被爆者の訴えは、検討会では少数でも、政治の場、国民世論の間では多数となりうるものであり、そのことを具体的に実現していこうと、その後様々なとりくみが進められている。12月15日(日)には「全国弁護団と支援団体の合同会議」が開催され、今後の運動方針について検討されることになっている。
最後に藤原精吾弁護団長から報告集会のまとめが行われた。要旨は次のような内容だった。あらためて被爆者の問題を被爆者だけの問題とせず、福島の問題とも重ね合わせ、被爆者を救うことが福島の人達を救うことにもつながる、大きな国民的規模の運動に広げていこう。情報が押し隠されることによって過去最大の犠牲者となったのは被爆者だ。原爆とその被害の実態、調査、報道は徹底して規制され、機密にされ、被爆者の援護は放置され、今日の苦難を作り出してきた。強行的に成立された秘密保護法はその再現となる。こうした政治のゆがみを正していくことと一体となった運動を進めていこう。
 
翌12月12日(木)は舞台を第7民事部(田中健治裁判長)に移し、この10月に新しく提訴された原告T・Iさん(70歳、男性、京都府城陽市在住)本人の意見陳述と、第10次の原告T・Sさん(奈良市在住)についての最終意見陳述が行われた。
11:10の開廷と同時にT・Iさんの意見陳述が始められた。T・Iさんは2歳1ヶ月の時、広島市白島九軒町にあった自宅(爆心地から1.5km~2.0km)で被爆した。近くの河原や防空壕に避難し、数日後に自宅の焼け跡に戻った。父親が焼け跡にバラックを建ててから暮らしは再開され、焼け跡の開懇畑で栽培した食物を食べ、放射性物質に汚染された井戸水を飲み、汚染された土地に住み続けて幼児期を過ごした。2歳での被爆はT・Iさんを虚弱な体質にし、発疹、発熱、下痢などに悩まされ、耳や目など色々な病気に罹った。
1973年(昭和48年)頃十二指腸潰瘍を発症、1975年(昭和50年)頃には甲状腺その他に腫瘍ができ摘出した。40歳代後半から糖尿病を発症し、あらゆる治療、療養の継続にも関わらず症状は悪化、失明の恐怖にも襲われている。同じ被爆体験をし、原爆症認定もされた母親が同じ糖尿病の悪化が原因で82歳で亡くなっている。このこともT・Iさんの不安をさらに大きくしている。T・Iさんはその他にも、数々の病気に見舞われており、原爆放射線は全身に病を発症させるのではないかと思わざるを得なくなっている。
T・Iさんは2009年(平成21年)3月に慢性肝炎と糖尿病を原爆症認定申請し、2010年(平成22年)9月却下処分、異議申し立てもしたが今年4月に棄却された。申請以来4年が経過している。「審査会の医学的知見や経験則に照らし、放射線に起因していると判断するのは困難」という、まったく具体性に乏しい却下の理由がT・Iさんにはどうしても納得がいかない。裁判しなければ真実は明らかにできないと思った。一片の却下処分通知と具体性のない処分理由。却下処分を受けた多くの被爆者が共通して抱いた悔しさ、憤りではないかと思う。
陳述の後、田中裁判長が次回弁論の期日調整を行い、2014年3月6日(木)11:30と決まった。

DSCN2224_convert_20131217200359.jpg
一旦区切りをおいて、11:30から原告T・Sさんについての、担当の諸富健弁護士による最終意見陳述が行われた。T・Sさんは骨髄異形成症候群を認定申請し、放射線起因性については問題ないものの、経過観察という言葉を理由に要医療性を否定され却下されている。今年9月12日の医師証人尋問において阪南医療生協診療所長の真鍋穣医師は、骨髄異形成症候群の治療の特徴と、その中での経過観察の重要性、具体的なT・Sさんの状況について詳細で丁寧な証言を行われた。そして医療上の経過観察というのは重要な治療行為の一環であり、要医療性を否定するなどは医療というものを、医療制度をも根本から否定することだと強く批判された。諸富弁護士は真鍋医師の証言も参考にしながら国の主張の不当性を訴え、さらにそれは医師全体への挑発的態度、医師の存在価値をも否定するものだと言葉を強めて批判した。
昨日の第2民事部で最終意見陳述が行われたE・Hさんの場合も要医療性の否定だった。在り方検討会報告書でも要医療性についての見直しが殊更に書き込まれた。放射線起因性についての非科学的態度、「知見」だけでなく、要医療性についても認定基準を一層厳しくしていこうとする厚生労働省の姿勢を見ないわけにはいかない。諸富弁護士はその問題の重大性を指摘した。そして在り方検討会報告書全体について、司法判断の到達点を無視し、認定制度の後退にもつながる内容であることを批判し、裁判所に訴えた。
T・Sさんは今日が結審となる。田中裁判長は、既に確定している第7民事部の先の6人の原告と一緒に、年明け3月20日(木)13:10から判決言い渡しを行なうと宣言した。
この日の報告集会は意見陳述したT・Iさんの挨拶から始められた。T・Iさんの挨拶はお母さんの闘病にまつわる思い出を交えた、思いのこもったもので、母と共に訴訟を闘う、そんな意思を感じさせるものだった。それを受けて参加者それぞれからT・Iさんに激励の言葉が贈られた。

DSCN2227_convert_20131217200552.jpg

 最後に尾藤廣喜弁護団幹事長からのまとめが行われた。在り方検討会報告書の内容と経緯について触れ、12月16日(月)には
原子爆弾被爆者医療分科会が予定されるなど、報告書を梃子に年内にも被爆者の願いを無視した新しい認定基準の枠組が決められようとしている、と情勢が説明された。裁判は近畿訴訟の判決が来年3月20日(木)に続いて5月6日(金)も決められた。熊本地裁でも来春3月の判決が予定されている。全国からも近畿の判決は注目されている。年末という時期ではあるが、足を止めることなく国会対策、世論形成のとりくみ含めて運動を強めていこうと訴えられた。
 
 
ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟今後の日程
1月21日(火)
15:00
第2民事部
宇治簡裁
第9次
本人尋問
2月26日(水)
13:20
第2民事部
1007
第6・7・9・11次
医師尋問
306日(木)
11:30
第7民事部
806
 
弁論
3月14日(金)
13:30
第2民事部
1007
第6次
医師尋問
3月20日(木)
13:10
第7民事部
806
第5・8・10次
判決
509日(金)
11:00
第2民事部
1007
第3次・4次
判決

スポンサーサイト
2013.12.17 Tue l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (3) l top

コメント

コメントの投稿












トラックバック

トラックバック URL
http://fujiwaradannchou.blog50.fc2.com/tb.php/321-ed3b6958
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
長崎市エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。
京都市伏見区エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。
伊丹市エージェント:貴殿の記事ダイジェストをGoogle Earth(TM)とGoogle Map(TM)のエージェントに掲載いたしました。訪問をお待ちしています。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。