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長谷川千秋さんの傍聴日誌。
アップできていない過去のものを少しずつ、紹介していきます。

ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟の裁判傍聴日誌○32
「8・6確認書」後近畿最初の一斉提訴グループも本人尋問入り
野田内閣改造、厚労相は三井辧雄氏。被団協「原発ゼロを!」


2012年10月11日(木)
 日本からハトはいなくなったのか―。そう嘆きたくなる昨今の保守政治の動向である。9月21日に行われた民主党代表選で野田佳彦首相が再選され、野田首相は10月1日、第3次改造内閣をスタートさせた。自民党は9月26日の総裁選で、安倍晋三元首相を新総裁に選んだ。政界再編の第3極を狙う橋下徹・大阪市長と地域政党・大阪維新の会が国政進出を決め、9月28日、新党「日本維新の会」を立ち上げた。野田首相はもともと改憲派で、首相になってからは「日米同盟深化」を強調、対米追随姿勢が一層強くなっている。安倍総裁は自民党内でもタカ派中のタカ派だ。首相時代の2007年、改憲手続き法(国民投票法)を強行成立させた。「日米同盟強化」を総裁選でも叫び続けた。橋下大阪市長は基本政策だと称する「維新八策」で改憲、道州制、TPP賛成を打ち出すなど自民党政治の亜流であることが日増しに明らかになりつつある。これまた「日米同盟基軸」である。日米同盟にしがみつくことはアメリカの核抑止力に頼ることである。これでは核兵器をなくせない。核戦争による唯一の被爆国日本が、いつまでこんな政治を続けるのか。核兵器の性能を調べる新型核実験がオバマ政権になって6回も行われたことが9月下旬明らかになったが、日本政府は抗議の声ひとつあげない。

 野田政権で顕著になってきたのは、原発政策の後退である。「脱原発」を求める国民の声に押され、9月14日、2030年代に「原発ゼロ」を目指すとした新エネルギー・環境戦略を決めたが、アメリカからも、財界からも、自民党からも反対され、針路がぐらついてきた。被爆者団体の日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の全国都道府県代表者会議は10月4日、「原発ゼロの決断を直ちに」のアピールを採択した。福島第1原発の事故は、昨年暮れ政府が出した「収束宣言」とはほど遠い状態なのに関西電力大飯原発3,4号機を再稼働させ、青森県の大間原発など着工済みの原発建設再開を容認した、と政府に抗議。こう訴えた。
 「わたしたち被爆者は、原爆の爆風、熱線、および放射線による期限のない残酷な苦しみを否応なく体験させられてきた。原発がいったん事故を起こせば、何世代にもわたって被害を広げる惨事となることをいま目の前でわたしたちは体験している。たとえ事故が起きなくても、原発稼働による使用済み核燃料は高濃度の放射性物質で、人類はそれを無害にする処理能力を持っていない。54基の原発稼働でたまりにたまった使用済み核燃料は2万4千トンにもおよぶ。このうえ再稼働させれば数年で保管しきれなくなることも明らかになっている。人類の生存、地球環境の保全、安心、安全に人々がくらせる社会をつくるためにも、原発の稼働を直ちに中止し、原発ゼロの社会へ決断し実行にうつす時だ」

 野田第3次改造内閣で厚生労働大臣は交代し、三井辨雄(みつい・わきお)衆院議員(北海道2区、69歳)が就任した。薬剤師の資格を持ち、地域医療・福祉の専門家。消費増税では政調会長代理として党内融和に努め、小沢一郎氏に近かったが増税法案に賛成した(朝日新聞10月2日付朝刊「新閣僚の横顔」から)。被爆者問題とのかかわりをインターネットで調べたところ、安倍内閣時代の2007年、民主党「次の内閣」ネクスト厚生労働大臣として、原爆症認定集団訴訟での大阪地裁判決をはじめ原告勝訴の「判決を受け入れよ」「控訴を取り下げよ」と政府に要請していた。大臣就任以来の記者会見(同省ホームページ)では10月11日現在、被爆者問題についてまだ何も発言していない。

 ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟のうち、2010年8月、その2年前に改定された「新しい審査の方針」(新認定基準)に基づく原爆症認定申請が不当にも却下されたなどとして、大阪、兵庫両府県在住の被爆者7人が起こした却下処分取り消し訴訟が、大阪地裁第7民事部で10月2日、ようやく本人尋問に入った。2009年8月6日、麻生太郎首相(当時)と日本被団協の間で原爆症認定集団訴訟の終結に関する確認書(略称「8・6確認書」あるいは「8・6合意」)が交わされたが、国はその後も理不尽な申請却下を続けたため、怒った近畿の被爆者たちが弁護団と支援団体に支えられ、確認書以後では全国で初めて一斉提訴に踏み切ったものだ。集団訴訟・近畿は大阪地裁第2民事部でずっと審理されてきたが、このグループが最初の第7民事部係属となった。第2民事部と合わせた近畿の取り消し訴訟全体の中では第5次。裁判長は2011年5月の第3回弁論から田中健治氏に代わった。田中裁判長は、2006年5月、大阪地裁が全国に先駆けて9人の原告全員勝訴の判決を言い渡したときの右陪席裁判官。この判決は集団訴訟のその後に大きな影響をもたらし、国は連戦連敗を重ねて、ついに「8・6確認書」に至ったのだった。そして近畿の7人一斉提訴後、再び各地に認定申請却下処分取り消し訴訟が広がりつつある。

 この日の本人尋問は、大阪地裁806号法廷で、午前10時半から昼食休憩をはさんで午後5時前まで行われ、原告のうち大阪市在住の長崎の被爆者、梅本光夫さん(82歳)、兵庫県西宮市在住の広島の被爆者(男性、74歳)、大阪府阪南市在住の長崎の被爆者、武田武俊さん(81歳)の3人が出廷した。
 午前は梅本さん。原告側弁護団から豊島達哉弁護士が主尋問を担当した。証言台に立つのがつらそうな梅本さんに田中裁判長は「座ったままで結構なので宣誓書を読んでください」。裁判官、原告・被告代理人、傍聴者全員起立の中で、着席したまましっかりと宣誓書を読み上げた。梅本さんは昨年2月にはこの法廷で意見陳述するなど法廷によく来ていたが、足が具合悪くなりこのところ参加できなくなった。本人尋問なので必死の思いで出廷したのだった。
 梅本さんは当時15歳、軍需工場に勤務、夜勤明けであの日、8月9日朝、爆心地から約1キロの自宅に帰り、寝る用意をしていた時、原爆が落ちた。生き地獄の中で多くの被爆者がつらく、悲しい体験をしているが、梅本さんもそうだった。母親と姉、姉の子ども2人と暮らしていたが、一瞬のうちに家屋倒壊で家族全員ががれきの下敷きに。梅本さんと母、姪の1人は自力で脱出できたが、姉ともう1人の姪は、助けようにも大きながれきを除けることができない。町中が火事となって危険が迫る。とうとう姉ら2人のことはあきらめて、「自宅から歩いて20分ぐらい」(梅本さん)の山の中腹にある墓場に逃げたのだった。
 豊島弁護士は当時の長崎市の地図で山王神社の位置を示して「片鳥居が記憶にあるか」と質問、梅本さんは「柱が片方だけの鳥居をみた」と答えた。山王神社は爆心地から約800m。二の鳥居は爆風で片方の柱が吹き飛んだ状態で立ち、一本柱鳥居ともいわれる被爆建造物として知られる。豊島弁護士はさらに長崎市の戦災資料から付近一帯の緊迫した情景記述を読み上げた。梅本さんも「逃げるのがやっとだった」。
 墓場で3日間過ごしたあと近くの叔父の家の防空壕で暮らした。この間に姪が死亡。唐津の親戚の家に避難したころから、体中に斑点ができるなど母の体調が急に悪化。医者に診てもらっても原因不明のまま、9月4日、亡くなった。梅本さん自身も脱毛、発熱、下痢、体中の斑点など急性症状が出る。「母の後を追うようにして死んでいくのかなと思った」。
 戦後、大阪に出て靴職人になったが、無理がきかない体になってしまった。2007年、難治性貧血症、リンパ球減少症と診断され、原爆症認定を申請したが2010年3月、却下。「この裁判で訴えたいことは?」と豊島弁護士の締めくくり質問に、梅本さんは「(爆心地から)1キロしか離れていなかったのです。よろしくお願いします」と述べた。
 被告・国側代理人、尾河吉久裁判官から申請疾病の症状が出た時期などについての短い質問があって、午前11時25分、梅本さんの尋問は終了した。

 午後1時15分、再開。西宮市の男性被爆者の主尋問は濱本由弁護士が担当、被爆の事実、その後の体調の変化を聞いていった。原告は8月6日、爆心地から約2kmの広島市福島町の自宅で、両親、妹、弟と一緒にいて被爆した。7歳だった。原爆投下の瞬間は、わが家に爆弾が落ちたと思った。家は屋根がドスンと落ちて、土ぼこりで何も見えず、しばらくして家の倒壊を知った。回りの家々もみなつぶれ、普段は自宅からは見えない比治山が見通せた。自分は右わき腹にガラスが刺さり負傷。妹、弟も火傷を負った。しばらくすると重油のような「黒い雨」が30分ぐらいは降り続いた。家族全員、掘っ立て小屋を作って避難していた。
 翌7日、原告は学校代わりに使われていた相生橋付近のお寺(爆心地から約500m)に歩いて見に行ったが一面焼け野原で、目印にしていた石の門柱が横倒しになっていた。昼前には帰宅したという。ここで濱本弁護士は「原爆症認定申請書類に翌日のことが記載されていないが、どうしてか」と尋ねた。原告は「近距離被爆だし(新基準で)『積極認定しますよ』と変わったのだから、翌日のことは書く必要もないと思った」と答えた。これは、後刻、被告・国側代理人の反対尋問でも出たが、答えは同じだった。原告は被爆数日後から下痢、おう吐の急性症状に苦しんだ。1982年、胸の痛みがひどくなり、兵庫医大で心筋梗塞と診断され手術を受けている。妹はケロイドが残り、乳がんで原爆症と認定されている。弟は心筋梗塞で40歳代で亡くなった。父も心筋梗塞、母も胃がん。まさにピカドンで一家全員の健康が破壊されたのだ。2008年、心筋梗塞で認定申請、2010年、却下。「その時の気持ちは?」と濱本弁護士に問われ、答える原告の声には怒りがにじんでいた。「何千人もの申請を前に、委員の方だけで審査ができるのだろうか。距離と病名だけで審査し、却下、却下をしているのではないか。もっと被爆者の声を聞いてほしい。被爆者の気持ちをよく知ってほしい」。裁判所側には「被爆者の立場に立った判断を下してほしい」と訴えた。被告・国側の反対尋問、裁判官の補充質問があって午後2時20分すぎ、終了。

 短い休憩の後、午後2時35分、3人目の長崎の被爆者武田さんの本人尋問へ。愛須勝也弁護士が主尋問を行った。武田さんは2010年12月9日の第1回口頭弁論で原告のトップバッターとして意見陳述に立った人だ。「せめて命あるときに、喜びや悲しみ、感謝の気持ち、ありがたみが認識できるうちに、認定していただきたい」との訴えにジーンときたのを思い出す(裁判傍聴日誌⑨参照)。
 武田さんは入市被爆者である。当時14歳、長崎県東彼杵郡川棚町の川棚海軍工廠に学徒動員され、魚雷を磨く作業をしていたが、終戦となり、8月15日、長崎市に入り、爆心地から500m圏内を中心に19日まで廃墟の中で過ごし、長崎県西彼杵郡高島町の実家にたどり着いたのは21日。この間に原爆による誘導放射線、残留放射線を被曝したのである。実家に戻った直後から猛烈な下痢(急性症状)に襲われ、2007年、肝細胞がん(晩発性障害)を発症、2年後、肝臓切除の手術を受けている。だが、国の新認定基準実施後の2008年6月に出した原爆症認定申請は2010年、却下された。
 主尋問、被告・国側代理人の反対尋問、田中裁判長、尾河裁判官の補充尋問合わせ約2時間20分と、この日一番長い尋問となったのは、1つは被爆者健康手帳申請書類に入市日を8月17日とするなど事実と異なる点があったことから本人の記憶の確かさが試されたからである。しかし、正直に、誠実に答えていった武田さんの言葉から逆に明らかになったのは、いつまでも忘れられない廃墟の中での強烈な印象と、社会の差別の中で生きていかねばならなかったつらい被爆者人生だった。
 武田さんは8月16日昼、爆心地から500m圏内の長崎市浜口町のがれきの中に立ち入ったが、その位置関係を鮮明に覚えていたのは、焼け野原の中に長崎医大病院の建物が一見無傷のようにぽつんと建っていたからだった。この病院は敗戦の2年前、母親が3カ月の闘病の末亡くなるまで何度も見舞いに行っていたのだ。病院近くの商店街は跡かたもなく、茫然と立ちすくんだという。亡くなった父親からは周囲の偏見を恐れ「原爆のことは忘れろ」とくどいほど言われた。被爆者であることを伏せて結婚、11年後に父の死で将来に不安を覚え、初めて妻に事実を明かしている。国側代理人はプライバシーにまで踏み込んだ尋問を行ったが、どんな意図からなのか私には理解できず、不愉快だった。
 午後4時55分、閉廷。次回は12月6日(木)午後1時半から5時まで、806号法廷で。2原告の本人尋問予定。
報告集会が短時間、裁判所近くの北浜ビジネス会館8階会議室であった。武田さんと男性原告の2人も参加、支援者からの拍手を受け、一言ずつ感謝の気持ちを述べた。愛須弁護士は「まだまだこれからも本人尋問が続き、医師の尋問、最終弁論へと展開されていく。気を抜かずみんなで頑張ろう」と締めくくった。

 最後に、本のお知らせ。1985年、高知県内の高校生たちとビキニ水爆実験の被災者の聞き取り調査を始めた太平洋核被災支援センター事務局長、山下正寿さん(高知県宿毛市)が、以来27年間におよぶ追跡調査で分かった第五福竜丸を含む延べ1000隻のビキニ被災船の真実、日米政府による核実験被災の隠ぺいというビキニ事件の真相に迫る集大成のドキュメンタリーを刊行された。「核の海の証言―ビキニ事件は終わらない」(新日本出版社、本体1800円)。「終章 ビキニ事件と福島原発被災のこれから」に、同じ道を歩ませないために、と何度も福島原発事故被災地に足を運んだ山下さんの思いがこもる。多くのみなさんに読んでほしい。

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2012.11.08 Thu l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top

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