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本日(11月7日)は、大阪地方裁判所第2民事部で河本一成医師の証人尋問が行われました。
尋問担当は、塩見卓也、大槻倫子弁護士と、藤原精吾団長。
河本先生は主尋問90分、反対尋問90分、原告らの申請疾病である甲状腺機能低下症の放射線起因性について証言されました。
これで立証は終了し、いよいよ、来年2月8日に結審の予定です。
以下は、本日の証言に先立ち第1回の口頭弁論期日が行われた取消11次訴訟の原告である中田雅子さんの意見陳述です。

《原告中田雅子》
 私は2歳3ヶ月の時に爆心地から約3kmの大河町の自宅で被爆しました。幼かった私は、その瞬間に棚から物が落ちたということだけをかすかに覚えているだけです。その他の当時の事は、両親や祖父母から聞いていたことしか知りません。私の父は軍の要請で爆心地近くに何かの作業に出かけ大火傷を負い、父を心配して探しに行った母に見つけられ、大河小学校の救護所に母に連れて行ってもらったそうです。この時、私は母に背負われ、2歳上の兄も母に連れられて行っていたとのことです。母の姉一家、母の妹一家も市の中心部に住んでいたので、母は父を看病する傍ら、毎日のように姉や妹、その家族の安否を確認しようと私と兄を連れて爆心地付近をさまよったと聞いています。もう40数年前のことです。私が夫との結婚が決まりかけた時、夫の母(姑)から、生まれてくる子供に広島生まれの私の被爆が遺伝するとの理由で結婚に反対されました。その時、私は生まれて初めて原爆の差別を知りました。それでも何とか結婚でき、子供も無事生まれました。子供が小学生になったある時、子供の父母会の席で戦争の話し合いがありました。私の体験談として、当時私は2歳3ヶ月で被爆時に目の前に棚から物が落ちたことを話したところ、父母会の方々から、それは私の周りの大人が私に話し続けて、私の頭脳に擦りこんでいっただけで、2歳3ヶ月の幼児がそのようことを記憶している訳がないと失笑されました。私は、それ以来2度と広島の原爆について口にすることはありませんでした。私の父はケロイドの痕がひどく、かゆくなり、体がだるく、長い間苦しみました。私は子ども心に、母や祖母が必死に父の体をさすっていたことを覚えています。また、私の母の姉のご主人や子供たち、母の妹のご主人や子供たちも皆8月6日に亡くなりました。私は原爆の恐さを自分だけでも決して忘れてはいけないと思っています。それが生き残った私達の義務なのです。

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2012.11.07 Wed l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top

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