2月22日、大阪地裁第2民事部で、原爆症認定訴訟の第9次取消訴訟の第1回弁論等が開かれました。

以下は、近畿第1次訴訟において、当時、新人ながら国側のエース・小佐古敏荘証人に対して見事な反対尋問をした稲垣眞咲弁護士の感動的な意見陳述です。

意見陳述書

 

平成24年2月22日

 

大阪地方裁判所 第2民事部 御中

 

原告訴訟代理人      

弁護士  稲 垣 眞 咲

 

1 昭和19年9月12日原告原野宣弘さんは生まれました。翌20年8月9日長崎に原爆が投下されます。原野さんが、わずか生後10ヶ月の時です。原野さんのお父さんは、当時三菱造船所飽浦工場に勤務していました。原爆が投下された日、原野さんのお父さんは家に帰って来ませんでした。翌10日の夜になって、同じ職場の人から、原野さんのお父さんは、9日朝、機械を疎開させるために、同僚十数人と共に飽浦工場から西浦上の兵器工場に向かって行ったとの知らせがありました。11日から原野さんのお母さんは、夫の職場の人と共に夫を捜しに行きます。まだ乳飲み子である原野さんを1日家で留守番させることはできません。原野さんのお母さんは、原野さんを背負って行きました。真夏のことです。原野さんは、手ぬぐいを頭にかぶせられた程度で、ほぼ裸のままお母さんに負われていました。原野さんのお母さんは、夫を捜して、何日も自宅から西浦上の兵器工場までの間を歩き回りました。がれきをひっくり返しては、夫を、夫の遺体を捜しました。1週間ほどした頃、浦上川の大橋付近で、原野さんのお父さんたちが運搬していた機械が見つかりました。散乱する骨の中に、原野さんのお父さんのお弁当箱と腕時計がありました。

昭和32年に原野さんのお母さんが記載した原爆手帳申請の書類には、当時12歳、まだ成長期の子どもである原野さんについて、食欲がない、疲れやすいといった症状が記されています。

原野さんは、30代後半から、体調が悪いことを自覚するようになり、41歳で脳出血、44歳で再度脳出血、53歳で脳梗塞と心筋梗塞と、次々と大病に襲われました。

2 平成20年3月、新しい審査の基準が定められ、放射線起因性の有る心筋梗塞が積極認定の対象となりました。この年の11月に原野さんは、申請を行いました。新しい基準ができる直前の2月には、53歳のとき(平成9年)に行った心筋梗塞手術のバイパスが詰まってきたため、ステント手術を受けたところでした。しかし、申請から約2年経過した平成22年10月25日に却下処分が下されました。原野さんと同じ頃、新しい基準に基づき、癌で申請をした知人たちからは、次々と認定されたとの話が聞こえてきました。原野さんは、非常に落胆しました。同じように被爆し、積極認定の対象とまでされている病気になったのに、なぜ自分は認定されないのか憤りを感じました。

3 厚生労働省がホームページ上で公開している処分状況のデータを見ると、平成22年4月から平成23年3月までの間に、心筋梗塞で原爆症の認定を受けたのはわずか43名だけで、730名の方が却下されています。また、心筋梗塞で認定されている方は、すべて、爆心地から1.5キロ以内で被爆した直接被爆者ばかりであり、1.5キロを超える距離で被爆した直接被爆者や入市被爆者で認定された方はいません。心筋梗塞の平成22年度中の認定率はわずか5.6パーセントです。心筋梗塞に放射線起因性が認められることは今までの数々の研究やこれに基づく医師の証言によって立証されてきました。心筋梗塞の放射線起因性を認める判決も全国各地で相次いで出ています。これを無視することができないからこそ、厚生労働省は、新しい審査の基準では心筋梗塞を積極認定の対象としたのではなかったのでしょうか。認定されなかった94.4%の方の心筋梗塞が、原野さんの心筋梗塞が原爆のせいではないと何故いえるのでしょうか。

  それとも、厚生労働省は原野さんが被爆していないというのでしょうか。

福島第一原発の事故以来、放射線被爆について、様々な報道がなされています。原発から何十キロも離れた所でも放射線が検出されています。乳幼児への影響が大きい、母乳から放射能が検出されたとの報道もあります。厚生労働省の食品中の放射性物質の規制においても、小児の期間については、感受性が成人より高い可能性があるとして、乳児用食品には特に厳しい規制とする方向での検討がなされています。

 原野さんは、生後10ヶ月で、爆心地付近に約1週間も行っていたのです。がれきをひっくり返して夫を捜す母の背で、埃や煙を吸い込み、またそんな状況の中で母乳も飲んだことでしょう。国は、福島第一原発の事故では数十キロの避難区域を設け、乳児用食品にも特に厳しい規制を設けながら、それでも、原野さんは、被爆していないと言うのでしょうか。

4 却下通知を受けて、原野さんは異議申し立てを行い、結論を待っていましたが、未だに結論は出ていません。

昨年7月、原野さんは、脳梗塞の後遺症から誤嚥性肺炎となり、入院しました。胃瘻の手術をし、もう退院は見込むことのできない状態です。

原野さんには、もうこのまま待っている時間がないため、提訴に踏み切ったものです。

原野さんは、脳梗塞後、リハビリをかねて絵を描き始めました。原爆が投下された当時の記憶は有りませんが、描きたいと思うのは、長崎への思いと、平和への願いのこもった絵です。平成19年5月末には、長崎の平和祈念像を題材に、像を照らす月の部分に平和のシンボル折り鶴を浮かび上がらせた「悲傷の月」を完成させました(資料1)。平成23年5月末には、鳴り響く鐘の上を、上空からの光に照らされて白い鳩が飛び交う姿と、原爆で壊滅した長崎の街を対照的に描いた「鳩はどこにいく」を描き上げました(資料2)。どちらの絵にも、被爆者として生きた証を残したい、あの惨禍が二度と繰り返されないように、核を保有する時代は終わらせないといけないといった思いが込められています。裁判所には、原野さんの思いを受け止め、原野さんの体に起きたことをしっかりと見て、判断をしていただきたいと思います。

以上
資料1(悲傷の月)_convert_20120223013107


資料2(鳩はどこにいく)_convert_20120223013155



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2012.02.23 Thu l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top

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