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義務付1次訴訟、取消4次訴訟結審!判決は来年3月9日に!

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本日12月14日、午前11時より、大阪地方裁判所第2民事部(山田明裁判長)において、原爆症認定義務付1次訴訟(原告Mさん)と取消4次訴訟(原告中村さん)の事件が結審しました。
原告Mさんの事件は、厚労省が被曝者からの原爆症認定申請を塩漬けしてまったく認定しないことから、不作為の違法確認と原爆症認定の義務付け・国家賠償を求めて提訴したもの。一旦結審し、昨年4月に判決言渡しが予定されていました。ところが、判決の言渡しの2週間前に、違法確認判決が下されることを回避するために、厚労省は駆け込みで却下通知を、速達で送りつけてきました。
Mさんの申請疾病名は、中村さんと同じ、「新しい審査の方針」で積極認定の対象疾病とされる「心筋梗塞」。

濱本由弁護士が、声を詰まらせながらに、Mさん、中村さんの無念を代弁して弁論しました。
以下は、感動の弁論です。
ぜひ、お読み下さい。

意見陳述要旨
                                                                                 2011年12月14日
大阪地方裁判所第2民事部御中
                                     原告ら訴訟代理人
                                     弁護士   濱  本    由
1.1945年8月,広島,長崎に原子爆弾が投下されました。不気味な閃光,熱線,爆風が人々をおそいました。同時に目に見ることも体に感じることもできない放射線が人々の体を射抜いたのです。原子爆弾は広島,長崎に甚大な被害を及ぼし,1945年中に亡くなった方は広島で14万人,長崎で7万人といわれています。
 私たち弁護団は,原爆被害を死者の数,負傷者の数,倒壊建物の数といった抽象的な数字で捉えず,その中の一つ一つの命,一人一人のあるべき人生に思いを馳せて欲しい,そしてあの日,きのこ雲の下で起きていた事実をしっかり受け止めて欲しいと訴え続けてきました。本日,弁論終結を向かえるお二人も,原爆のきのこ雲の下で苦しみに満ちた体験をし,心と体に未だに癒えない傷を受けました。お二人とも昭和3年生まれ,原爆投下時はまだ少年ともいうべき年齢でした。
2.原告Yさんは,8月6日早朝,陸軍経理学校の試験を受けるため広島に来ました。試験会場の小学校校庭で待機中,原爆が投下されたのです。投下の瞬間は爆風に巻き上げられた土埃,砂埃で周囲がけむり何も見えなくなりました。Mさんは,岡山の空襲とは全く違うことが起きていると直感しました。その後,Mさんは牛田山を経て東練兵場へと避難しました。牛田山の山頂から見た広島市内はまさに火の海でした。東練兵場には,数百人もの兵士が背中に大火傷を負って倒れ込んでいました。一目見てもう助からないと分かるほどの重症者ばかりでしたが,17歳だったMさんには,ただ逃げることしかできず,兵士らをかき分けるようにして先を急ぎました。Mさんは,広島駅の裏側から線路伝いに芸備線の矢賀駅まで逃げました。夕方,広島方向から,負傷者を満載した列車が到着しました。次の列車はいつ来るか分からないので,Mさんは必死で列車に潜り込み,何とかデッキに入りました。デッキもひどい混みようでした。大火傷を負って「背中とか腕の服がもう焦げてほとんどなくて,その下の皮膚はめくれて腰のところで垂れ下がって」いるような負傷者,「焼けた服がついてたりついてなかったり,もう半分裸みたいな格好」の負傷者たちに囲まれ,押し合い,互いに体を支え合うようにして終点の新見駅まで行きました。列車内には肉が焦げてそれが蒸れたような感じの臭いが充満し,その様子は,地獄の縮図のようであったということです。どうにか岡山の自宅にたどり着いたのは翌7日の昼過ぎでした。
3.原告中村さんは,陸軍燃料廠の技能者でした。原爆投下の瞬間は,岩国にいましたが,広島で被爆者の救援作業に従事するよう命じられ,6日のうちに,菜種油を搭載した船で宇品港へ向かいました。宇品港付近はすでに重症の火傷を負った被爆者であふれかえっていました。男か女かも分からない,赤ちゃんを抱いているので多分女だと分かる程の重症の負傷者もいました。中村さんは,自分の持っていた手ぬぐいを使い,夜通し,数え切れない程の負傷者らに菜種油を塗って回りました。8日,中村さんは再度岩国から列車で己斐駅に到着し,徒歩で横川駅へ行きました。中村さんは,横川駅で重度の火傷を負った見習士官らを救護し,列車に乗せて広島駅に運びました。広島駅でもまた同じような見習士官らを救護し列車に乗せました。どこで被爆したのでしょうか,見習士官たちは,火傷で顔中膨れあがっており,くちびるも腫れ上がって,飯粒を押し込むことも,水を飲ませることすらできないような状態でした。医療器具も何もなく,できることといえば体を拭いてやることぐらいでした。中村さんは,混雑したぎゅうぎゅう詰めの列車の中で,自分の手ぬぐいや褌などを使って,60人ほどいた見習士官らの汗や垂れ流しの下痢便を拭いて回りました。途中の駅で汚れた手ぬぐいや褌を洗いながら,中村さんは三次駅に着くまでこのような作業を続けました。中村さんは,列車の中の,下利便の臭い,焼けた皮膚の臭い,異様な熱気,そして立派な青年士官たちが,大声で泣き,母親を呼び求める声が今でもありありと蘇ってくると言います。
4.Mさんは平成9年,中村さんは平成14年に心筋梗塞を発症しました。お二人とも,平成20年に原爆症認定申請をしましたが,中村さんは翌21年の11月に,Mさんは平成22年4月に却下処分がなされました。
 裁判で被告は,心筋梗塞になったのは喫煙など他原因によるものだとの主張を繰り返しました。しかし,心筋梗塞に放射線起因性が認められることは,これまで数々の研究やこれに基づく医師の証言によって立証されてきました。そして,心筋梗塞の放射線起因性を認める判決も,全国各地で相次いで出ています。これを無視することができなかったからこそ,厚労省は,2008年4月に新しい審査の基準を設け,心筋梗塞を積極認定の対象としたのではなかったのでしょうか。お二人の心筋梗塞が原爆のせいではないと何故いえるのでしょうか。
 本法廷で行われた原告本人尋問で,被告は,医師であるMさんに,あなたの心筋梗塞が高血圧など他の原因によるものであることを否定できるのかと質問しました。これに対して,Mさんはしばし沈黙した後,「それもあったし原爆もあったと,そのように考えております。」と答えました。沈黙の間にMさんに去来した思いは測り知れません。しかし個人的な感情を乗り越え,医師として,返した冷静かつ客観的な答えに,被告はどんな反論ができるでしょうか。被曝の影響のみを発症原因から除外することにどんな合理性があるのでしょうか?しかも,放射線は遺伝子染色体に,直接的,持続的かつ不可逆的な影響を与え続けるという点で,他のどんなリスク因子とも異なっているのです。
 また,被告は,お二人がほとんど被曝していないとの主張を繰り返しています。しかし,どうして被告にそんなことがいえるのでしょうか?
 2011年3月11日の福島第一原発事故以来,放射線被曝の文字が新聞から消える日はありません。原発から何十キロ以内には放射線が飛んでいる,食べ物も水も汚染されている,学校のグラウンドの土も,赤ちゃんに飲ませるミルクも危ない。日々飛び交っているこのような情報を,被告は,取り越し苦労だとでもいうのでしょうか。国自身が,半径20キロメートル圏内に避難指示を出し,警戒区域に設定し,農作物などの出荷制限を行ってきたのではなかったでしょうか?この訴訟で原告らはほとんど被曝していないと言い続けてきた被告が,他方でこのような措置を講じている矛盾を,きちんと説明して欲しいものです。
5.被爆によって失うのは,健康な体だけではありません。
 中村さんは,終戦後,今の新日本石油に就職が決まりました。しかし,当時,中村さんは,原爆の急性症状から引き続く後障害のせいで,やせ細って寝たきりの毎日を送っていました。中村さんは,泣く泣くこの就職の話を断りました。ようやく,少し回復して仕事に就いても,またすぐに動けなくなってやめてしまい,職を転々としました。32歳でようやく安定した職を得ましたが,その後も,中村さんは何度も体調を崩し,会社を辞めては復職するということを繰り返していました。52歳のとき,中村さんはタクシーの運転手をはじめました。収入の安定しない日々が続きました。あの時,新日本石油に入っていればと思わない日はありませんでした。そのうえ,中村さんは,狭心症,心筋梗塞,脳梗塞と立て続けに大病を患ったのです。どれも動脈硬化からくる病気ばかりです。医師に高血圧などの原因もないのにおかしいと言われたこともあります。中村さんは,今年初めに脳梗塞が再発し,その後遺症で,文字を読むのも,会話も,歩行も大変な苦労を伴うようになってしまいました。
 被爆後,中村さんが,経済的な不安と健康上の不安から解き放たれたことはありません。原爆は,まさに16歳の少年の将来を,人生そのものを破壊したのです。被爆を境に,被爆者としての人生を生きるしかなくなってしまうのです。
6.被爆者にとって認定申請は,原爆のせいで自分は病気になり,このような人生を送らざるを得なかったという事実を国に認めさせる唯一の制度です。したがって,被爆者にとって,認定申請の却下は非常に大きな打撃となります。
 Mさんは,平成21年4月,本件訴訟に先立って義務付け訴訟を起こしていました。裁判は順調に進み,平成22年4月に判決が言い渡されることになりました。Mさんは,ずっと被爆の事実を隠し続け,被爆者手帳も最近まで取得しませんでした。認定申請は非常に勇気のいることでしたが,自分の病気が原爆のせいでないはずがないと思い切って提出したものでした。厚労省の認定申請放置の態度は明らかでしたので,私たちは,裁判所で被告の行為は違法と断罪されるものと信じていました。しかし,判決の僅か2週間前,厚労省は,Mさんに却下通知を速達で送りつけてきました。違法確認判決回避のためだけに,文字どおり,紙切れ一枚でMさんの思いを踏みにじったのです。Mさんは,この却下通知を受け取って,非常に落胆しました。最終的に判決言い渡しもなくなってしまい,Mさんは,もう,国も裁判所も信じることはできない,裁判を続ける意味がないと言われました。ご家族も裁判には大反対していました。
 しかし,最終的に,このまま終わるのは嫌だというMさんの思いで裁判は続けられることになりました。被爆者として生きざるを得なかった自分を否定されたまま諦めることは,Mさんには,どうしてもできなかったのだと思います。
7.長年,原爆に苦しめられ苛まれ続けてきた被爆者にとって,透明性のある審査も,合理的な理由も,納得のいく説明もなくなされた認定申請却下はとても受け入れられるものではありません。また,そんな被爆者にとって,原告はほとんど被曝していないという被告の言葉はどう響くでしょうか。
 福島第一原発の事故を契機に,被爆者として生きることが,決して過去のことでも他人事でもない,現在を生きる私たちにも充分起こりうる事態なのだということが明らかになりました。裁判所には,以上のようなMさん,中村さんの思いを自分にも起こりうることとしてしっかりと受け止めていただきたいと思います。お二人の心筋梗塞に放射線起因性が認められるのは疑いのない事実です。裁判所は,机上の空論に振り回されることなく,現に,今被爆者の体にどんなことが起きているのかをしっかり見て判断していただきたいと思います。 
                                                   以 上 

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2011.12.14 Wed l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top

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