寄り添って・被爆医師の半世紀/6 つかんだ全員認定

予告していました原爆症集団訴訟に関する記事が、毎日新聞本日の朝刊に掲載されました。
弁護団会議の模様も写真入りで報道されました。

◇患者の涙、原動力
 06年5月12日、大阪地裁の大法廷。満員の傍聴席で此花診療所長、小林栄一(85)は、原爆症認定集団訴訟の初の判決言い渡しを待っていた。「認定申請却下処分を取り消す」。裁判長が一人一人の原告について、主文を読み上げていく。原告9人分を指折り数えていた小林は「全員勝訴」と分かった瞬間、涙があふれて止まらなかった。
 小林は被爆者医療に取り組む中で、原爆症認定制度に早くから疑問を抱いていた。当初は多くが認定されていたケロイドなどが、申請数が増えるうちに次第に認められなくなった。却下という結果を患者に伝えるのがつらかった。ほとんどの患者は落胆や諦めの表情になり、「異議申し立てしますか」と尋ねても、「もういいです」と涙ぐんで帰っていく。「救われるべき人が切り捨てられている。国は被害の実態が分かっていない」
 だからこそ、集団訴訟への支援に力を惜しまなかった。医師団を結成し、意見書を書いた。欠かさず裁判を傍聴し、原告を励まし続けた。勝訴の瞬間、悔し涙を流していた患者たちの顔が脳裏に浮かんだのだ。
 小林の元に20年以上通う元原告の木村民子(74)=大阪市鶴見区=は01年末に胃がんが分かり、認定申請したが、却下された。小林に相談すると、「裁判に参加しますか。覚悟が必要ですよ」。木村は迷うことなく「はい」と答えていた。「信頼する小林先生が言うんやったら間違いないと思った」と振り返る。
 8歳の時に広島で被爆した木村は、大阪に来て15歳で住み込みの仕事を始めて以来、働き詰めの人生だった。体調はすぐれなかったが、休むこともできなかった。裁判に関わるうち、「初めて被爆者がどんなひどい仕打ちを受けてきたか分かった」。「普通のおばちゃん」(小林)だった木村だが、厚生労働省との交渉の場でも「あんたらに私らの苦しみは分からん」と口にするようになった。家族は何も言わずそっと見守ってくれた。
 木村を担当した弁護士、有馬純也(34)は02年秋に弁護士登録した直後、弁護団に加わった。原爆に特別の関心はなかったが、国による被爆者援護の実情を知るうち、「国は未解明な部分は(放射線影響が)なかったことにしようというやり方だと分かった。目の前に苦しんでる被爆者がいるのに、頭に来た」。こみ上げる怒りが、有馬を訴訟に没頭させた。
 現在も大阪では新たな訴訟が続き、有馬にとっては「ライフワーク」になった。今も集会などに顔を出す木村から、最近こうからかわれる。「先生、最初はほんま新米って感じで若かったねえ」。一人前と認められたようで、少し誇らしい。(敬称略)=つづく【牧野宏美】

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2011.07.21 Thu l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top

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