先日、1通の喪中ハガキが届いた。
原爆症認定集団訴訟の高松訴訟の原告長崎英子さん(仮名)が、7月に亡くなったという。知らせを聞いて大きな喪失感に襲われた。
高松訴訟は、提訴に至るまでの紆余曲折のため、とりわけ思い出深い。
訴訟を引き受けるまでに近畿弁護団の若手が果たした役割は感動的だったと思う。
ここに、提訴から勝訴までの経緯を改めてまとめておきたい。

■ 訴訟提起に至る経緯
2006(平成18)年5月12日、原爆症認定集団訴訟において全国のトップを切って、大阪地裁で原告9人の勝訴判決が下された。判決は、それまで、ほとんど認定されてこなかった遠距離被爆者、入市被爆者の認定に道を開くものとして、全国の被爆者を勇気づける画期的なものであり、その後の集団訴訟の流れを決めた。
その判決の少し前に、香川県高松市にも提訴希望の被爆者がいるということで、全国の弁護団においても受け入れが検討されていた。提訴希望者がいる以上、その思いを正面から受けとめることは当然であるが、実際には簡単な話ではなかった。提訴するにも地元高松で弁護を引き受けてくれる弁護士がいなかったのである。実は、原爆症認定訴訟だけではなく、多くの人権課題において、地元の香川で事件を引き受けてくれる弁護士がいないために、県外から弁護士が出張して担当するということが深刻な問題となっていた。高松のすぐ目の前に大島青生園という療養所を抱えるハンセン病訴訟もそうだった。地元で引き受け手を探すのは絶望的ということで、香川以外の四国の弁護士で引き受けることができないかも検討されたが、他県で訴訟を担うことは困難も予想され(ちなみに、その直前に、愛媛、高知でも訴訟が提起された)、瀬戸内海をはさんだ岡山、広島弁護団が担当することも検討されたが、それぞれ地元で訴訟を抱え、他県まで出張しての訴訟には同様の困難が予想されるために、立ち消えになり、最後には、東京地裁に提訴して東京弁護団が担当するか、大阪地裁に提訴して近畿弁護団が担当するかなど、侃々諤々の議論が続けられた。
 しかし、担当する弁護団は決まらず、提訴期限は刻々と近づいていた。
 そうこうしているうち、提訴期限(8月15日)まで1か月を切った2006年7月22日、近畿判決の余韻も冷めない時期に、広島で全国弁護団会議が行われた。高松提訴については、ほぼタイムリミットであったが、ここでも結論は出ず、提訴については消極的な雰囲気に包まれた。訴訟をたたかい抜くには、現地の弁護団、支援体制の確立は不可欠であり、それが確立されない以上、全国の訴訟の足を引っ張る危険があり、見切り発車の提訴は危険であるというのが理由であった。全国各地で集団訴訟として取り組まれており、現地で弁護団の事務局体制が取れない以上、どこの弁護団も安請け合いして引き受けるわけにはいかなかった(結論的に言えば、この意見は極めて正当だった)。
 このようにして、地元で引き受ける弁護士が見つからないまま、提訴期限が迫っていた。近畿弁護団でも、提訴を希望している被爆者を見捨てる訳にはいかないのではないか、現地で引き受ける弁護士がいなくても、大阪から2時間もあれば行けるのであるから、近畿弁護団で引き受けてもいいのではないかという意見も出されたが、第1次訴訟の控訴審、第2次提訴の審理も続いて気が抜けない中、精力を分散させないためにも、事務局を担う弁護士が見つからない状態では提訴は出来ないという意見が主流であった。
 このような中、8月4日には広島地裁で、原告41人全員勝訴という画期的な判決が下され、広島は大いに沸いた。全国から弁護団も集結して勝利を祝ったが、報告集会の後、原水爆禁止世界大会参加のために居残った近畿弁護団の一部から、再び、高松の原告の話題が出た。若手の有馬、中森らと、広島駅に近い居酒屋で飲みながら議論をしたが結局、名案は出ず、堂々巡りの議論が続いた。
 宿に戻り、さあ、寝ようかというときに、中森から電話があった。「有馬と話をして、高松の件、納得いかないので、もう一度、説得しようということになったので、ロビーまで来てほしい」とのこと。「まだ、諦めてないのかい」と呆れつつ、とりあえず、ロビーに戻って、全国から集まった弁護団が祝宴から戻ってくるのを待ち構えた。勝利の美酒に酔いしれて、ホテルに帰ってきた弁護団の面々は、ロビーで待ち構えている有馬、中森らを見て、すぐに何を考えているのか分かったようである。東京弁護団の安原弁護士は、ニコニコ笑いながら、「近畿の皆さんがお待ちかねですよ」と言っていたのが印象的に残っている。
私たちは、戻ってきた弁護団と一緒に、ホテルの近所のファミレスに入り、再び高松での提訴について引き受けるべきではないかという説得をした。
しかし、無残にも私たちの完敗であった。全国から集まった弁護士から完膚なきまでに論破された。とりわけ、同じ近畿弁護団の鬼軍曹こと三重弁護士からの、「前線に部隊を構築できない以上、受けるべきではない」という意見は憎たらしいほど説得力があった。
私たちは失意のまま、ホテルに戻った。広島地裁、全員勝訴の喜びは吹っ飛んでいた。
寝る前に、パソコンを開いてメールチェックをしていたところ、1通のメールが目に留まった。高松弁護士会に所属している同期の阿部晶子弁護士からのメールであった。当時、弁護士会の副会長をしていることを知り、ダメ元で、弁護団を担ってくれる弁護士を紹介してくれないかという趣旨のメールを送っていた。阿部弁護士は副会長をしていたので、彼女自身が受けることは困難でも、誰か受けてくれそうな弁護士を紹介してほしいと、藁にもすがる思いでメールをしていたのである。そのメールには、「自分がやってもいい」と書かれていた。私は飛び上がる思いで、すぐに近畿弁護団の尾藤幹事長の携帯に電話をし、事務局を担ってくれる弁護士が見つかったと報告し、近畿弁護団で引き受けることの了解を得て、みんなにメールをした。こうして、提訴期限10日前に、近畿弁護団と阿部弁護士による弁護団体制が決まったのである。
翌日、私たちを論破した全国の弁護士は口々に、「よかったね」と言ってくれた。

■ 提訴まで
それからが大変であった。
たまたま、広島判決後の行動のために日程を空けていたため、急きょ、8月7日に高松に行き、現地事務局を担ってくれることになった阿部さん、被団協の伊藤直子さんともども、提訴希望者の長崎さんと面談した。
長崎さんと病院のケースワーカーは、半ば裁判を諦めていたために、阿部さんに会って、「女神様のようです」と手を取って喜んでくれた。たくさんの被爆者の方の相談を聞いてきたが、ここまで喜んでもらえたのは後にも先にも初めてであった。本当に、この人のことを見捨てないでよかったと思えた瞬間であった。1日だけの聞き取りで、急きょ、訴状を完成させ、8月11日にあった弁護団会議で討議し、8月14日、高松地方裁判所に提訴するに至った。
ちなみに、私は、ちょうどお盆休みを取っていたので、家族を実家まで車で送り、そのまま電車に乗って引き返し、高松入りした。
なお、弁護団体制は、事務局長として阿部さん、実働弁護団は、有馬純也、中森俊久、佐藤真奈美の若手と私が担い、申請疾病がC型肝炎経由の肝臓がんであった関係で、肝炎のエキスパートの東京弁護団・内藤雅義弁護士らの支援を受けることになった。提訴には、香川県出身の尾藤廣喜近畿弁護団幹事長も奥様を同行して参加され、提訴後の記者会見には、NHKをはじめとする地元のマスコミ全社が参加し、極めて高い関心を示してくれた。その後も、マスコミは訴訟の進行に注目して事件を追ってくれた。
また、地元での裁判を支援する会が組織され、毎回、多数の支援者が傍聴し、裁判の報告集会にも参加してくれた。

■ 原告と訴訟の焦点
原告は、戦時中、小豆島の親戚に預けられていたが、預け先でも厄介者扱いされたことから、祖母が、長崎から小豆島まで迎えに来て、8月10日に長崎市内に入市した。
しかし、原爆手帳上の入市日は、8月15日となっており、国は積極認定の範囲を広げた後にも頑なに認定を行おうとしなかった。原告の申請疾病は、C型肝炎経由の肝臓がんで有り、最早決着の付いた疾病であったが、放射線起因性についても徹底的に争ってきた。
入市日について、原告は、差別を恐れて手帳申請が遅れたこと(昭和47年申請)、もともと長崎在住ではなく、母の再婚など複雑な家族構成から証人を探すにも苦労して、手帳取得に際しては、8月15日に稲佐橋の上で原告に会ったという証人を得たものの、その証人も既に死亡し、それ以外に証人や証拠は何もなかった。国は、入市被爆者にとって、入市した日は最大の関心事であり、不正確なまま申告したとは到底考えがたい等主張して、主張の信用性を争ってきた。しかし、被爆による差別を恐れ、原爆放射線の影響を少しでも小さく見せようとするのはよくあることで、国の主張は被爆者の心情を全く顧みないものだった。
しかし、原告の極めて鮮明な記憶が、その供述の信用性を認める決め手になった。
原告は、祖母に連れられて長崎に入り、道ノ尾駅で列車を降りて線路伝いに歩いたこと、そこで見た恐ろしい光景を忘れることができないこと、燻った火があちこちで「ぽっ、ぽっ」と残っていたことなどを鮮明に記憶していた。却下処分後、方々で相談した原告は、「入市したのはもっと早かったのではないか」と言われて、申請時の書類の控えに8月10日に入市した旨の記載を見つけた。しかし、その主張を裏付ける証人が見つからなかったために、証人の記憶に合わせて15日入市とした可能性が高かった。そもそも、原爆投下、何日後に入市したのかを正確に証明することは不可能である。手詰まり状態で、本人尋問で被爆状況を明らかにするほかないと諦めかけていた矢先、弁護団会議で、「長崎原爆戦災誌」に国鉄長崎本線の復旧が「11日午後10時15分」という記述を発見した。12日には長崎本線は復旧し、それ以降に入市しているのであれば、道ノ尾駅で降車せず、終点の長崎駅まで行ったはずである(目的地は稲佐町で、最寄り駅は長崎駅)。もっと詳しい資料がないか、長崎原爆資料館で鉄道関係の資料を片っ端から調査して、鉄道の復旧状況も調査した。地元マスコミでは、「弁護団、新証拠発見」という記事が掲載されたりもした(別に新証拠ではなかったが)。
長崎さんは、被爆者であることがわかり家族に差別が及ぶことを恐れ、一貫して匿名を貫いた。本人尋問も、傍聴席から見えないように遮蔽措置を講じて行った(多分、支援の人も分かっていたと思うが)。
こうして、3年半に及ぶ高松地裁通いの結果、無事、勝訴判決を勝ち取ることができた。
高松さんは判決言い渡しのときには法廷に姿を見せず、裁判所前の阿部さんの事務所から旗出しを待った。判決言い渡し時間が過ぎても旗を出す阿部さんの姿がなかなか見えないことから、心配を募らせた長崎さんに対し、阿部さんの事務所の所長である安藤弁護士が「主文後回しで理由から述べる場合もありますから」と言って安心させたというのも、後からの笑い話になった。

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(阿部晶子弁護士による旗出し。安藤誠基弁護士のブログから)

全国には、訴訟の引き受け手もおらず、諦めた被爆者が少なからずいると思われる。「被爆の実相を知ってしまったら見て見ぬ振りはできない」。高松弁護団は、その方針を貫いた。最後に、高松でも被爆者の会、原水協を中心に支援の会が結成されて毎回の法廷を埋めてくれた。何よりも、事務局を担ってくれた阿部さんが、最初は何もわからなかったが、訴訟の進行につれて頼もしくみえた。

※文中、高松訴訟の提起後に、高知、愛媛でも提起された旨の旨の記載をしましたが、読者のご指摘により、高松地裁への提訴の直前、2006年7月19日に愛媛、同月31日に高知で訴訟が提起されていますので、訂正します。関係者の皆様には謹んでお詫びします。

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2015.12.19 Sat l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top