平さんの裁判傍聴記⑬です。

第2民事部で3人の原告が壮絶な人生を語って認定行政を告発!
国は何時まで決着済みの裁判を繰り返し、不法な行政を続けるのか!
2013年10月27日(日)
 
 
ノーモア・被爆者近畿訴訟は、先週の第7民事部に続き、10月23日(火)には第2民事部(西田隆裕裁判長)の審理が行われた。第2民事部は、最初の原告グループ8人が8月2日勝訴判決を得て確定し、2番目の原告グループ2人は9月4日(水)に医師証人尋問を終えて12月11日(水)に結審を迎える。今回3番目のグループとなる原告7人はこれからが本人尋問などだが、この日はその内の最初の3人に対する尋問が行われた。
午前10時30分開廷。午前中の最初の証言は、神戸市中央区在住の被爆者F・Nさん(女性、74歳、長崎市で被爆)だ。宣誓の後、担当の前田麻衣弁護士の質問に答えて証言は進められていった。F・Nさんは6人兄弟姉妹の三女で、長崎市東中町(爆心地からの距離2.6km)の自宅に9人家族で住んでいた。8月9日は同居の長姉夫婦に赤ちゃんが誕生し、10人目の家族ができて喜ばしい日となるはずだった。長姉出産のため勤務先の三菱兵器茂里町(もりまち)工場を休んでいた父と、F・Nさんと、末妹の3人で西坂町の伯母さん宅(爆心地から2.2km)に出産を知らせに出向いていた時に原爆は投下され被爆した。6歳だったF・Nさんは爆風で庭から家の中まで吹き飛ばされ、物凄い光と音とを浴び、倒壊した家屋の下敷きになった。父に助け出され、伯母さん宅から逃げるように自宅へ向かう。途中の長崎の街は、灰色がかって薄暗い夜のような光景で、キノコ雲も、真っ赤に燃える海も見た。怪我の痛みと経験したこともない怖さが重なってF・Nさんはわんわん泣いていた。自宅はぐちゃぐちゃになっていて、近くの公園の先まで火災は迫っていた。
翌8月10日、父はF・Nさんを連れて爆心地から1.2kmにある茂里町の兵器工場の様子を見に行った。父は工場の残骸と同僚達の遺体の前に膝をつき、「自分だけ助かってすまない、すまない、ごめんなさい、ごめんなさい」と手を合わせ、わあわあ大きな声を出して、男泣きに泣き崩れた。6歳の少女にとって、初めて見たそんな父の姿は鮮烈な印象として記憶に残り、生涯忘れることのできないものになった。市内電車道に沿って歩いた工場までの往復は、真っ黒焦げに焼けた電車、立ったまま死に絶えている馬、焼け爛れた人々、「水をくれ、水をくれ」と迫ってくる人達の情景で満ちていた。街中に溢れる臭いは、「くさい」とか「臭う」とかの言葉ではとても言い表せないほど強烈なものだった。
10日の夜からは難を避けて寺町にあった墓地の納骨堂の中で過ごしたりもしている。被爆の直後から急性症状による体調悪化に見舞われた。嘔吐して真っ黒いものを吐き出したり、鼻血が止まらなかったり、激しい下痢、発熱、腹痛にも襲われている。
F・Nさんは高校卒業の後、単身神戸に移り住み、働き始めた。30歳の時、突然勤め先のトイレの中で気を失って倒れた。一年間は仕事のできない状態が続いた。以来今日まで何度となく突然気を失って倒れ、病院に担ぎ込まれる事態を繰り返してきた。「脳脊髄炎症かもしれない」と診断されたこともあるが、原因は不明なままであった。阪神大震災にも遭遇し、それを乗り越えて自身でスナックの経営もしてきたが、その後も発症は続き、夫から「もう(仕事を)止めてくれ」と言われて閉店した。2008年(平成20年)頃からは目眩もひどくなり、グルグルグルグル家の中がまわるような症状を来している。脳梗塞の疑いもあると言われ入院、2000年(平成12年)には変形性脊髄症も診断された。
2003年(平成15年)に甲状腺機能低下症と診断されたが、甲状腺については30歳代から異常感覚はあり、阪神大震災の頃にもエコー診断で「甲状腺がすごく大きくなっている」などと言われていた。
F・Nさんは、人生の中で病気のことを一切気にかけずに過ごす時など一瞬でもあったのだろうかと思われるほど、病魔に見舞われ続けてきた。それでも生きていくためには働くことを止めることはできず、病気とも、生活とも格闘の日々、年月を送ってきたのではないかと思う。F・Nさんの証言はメリハリの利いたはっきりとした声で、傍聴席からもよく聞き取れたが、それでも、当時の惨状、お父さんのこと、苦しかった戦後の日々を語る時はのどが詰まり、声が震え、肩もふるわせながらの証言になった。
かかってきた病気すべてが被爆が原因と思われるものばかりだが、その中から2007年(平成19年)、甲状腺機能低下症を申請疾患として原爆症認定申請をした。しかし3年近くも経って申請は却下され、やむなく提訴に至った。
主尋問の最後に裁判所に訴えたいことはないかと問われて、被爆者にはなんの責任もないことで苦しめられ、病気にさせられてきたのが原爆だ。被爆者みんなの生活のことを分ってほしい、被爆者みんなが助かるよう力を与えて欲しい、とF・Nさんは訴えた。
被告国側の反対尋問の内容には触れておくほどのこともなかった。細々とした質問に対してF・Nさんが、「覚えていなことは覚えていない」、「分らないことは分らない」、「分らないことにハイとは答えられない」と明瞭に言い切ったことがとても印象的だ。68年も前のことだ、6歳の時のことだ、手帳申請は本人の知らないところで父親がやってくれていた事情などもある。覚えていない、分らないこともあって当然だし、毅然とした回答が聞いている私達の胸にも余計に力強く響いた。

 
午後は1時30分から二人目の原告、兵庫県加東市在住の川上博夫さん(80歳、長崎市で被爆)の本人尋問から始められた。この日、川上さんの奥さんの姿も傍聴席にあり、静かに尋問を見守られていた。主尋問は森川順弁護士が担当した。被爆当時川上さんは12歳、瓊浦(けいほ)中学1年生だった。4人兄弟姉妹の上から2番目で、両親を含む6人家族で爆心地から3.7kmの長崎市岩瀬道町に住んでいた。原爆投下の瞬間は自宅にいて、空一面がマグネシウムを焚いたように青白く光ったのを記憶している。すぐに防空壕に入ったが、樹木をすべてなぎ倒すような轟音を耳にした。自宅の家屋は骨組みだけを残して屋根も窓枠も建具も吹き飛ばされた。自宅から見下ろす位置にあった三菱造船第2ドッグの建屋の屋根も半分吹き飛ばされていたこと、やがて海の向こう側の長崎駅辺りから火が燃え広がっていったことも記憶にある。翌日の8月10日、瓊浦中学に登校していて被爆した近所の同級生を自宅に見舞った。同級生はもはや意識はなく、全身大火傷で、蝿がたかり蛆が湧いていて、翌11日には亡くなった。自分も当日登校していたら同じ目に遭ったであろうと川上さんはその時痛感した。
川上さんは8月12日、父親と一緒に爆心地から700mの位置にある瓊浦中学に行った。自宅から瓊浦中学へは浦上川の西岸に沿って北上するが、途中の三菱病院で収容されている大勢の負傷者や死者の焼かれる様子を見たり、死臭のすごさも体感した。防空壕の中に生死も定かでない多数の人々が折り重なっていたり、路上でトタンや蓆に覆われているいくつもの遺体なども目にした。瓊浦中学の建物はバラバラとなり瓦礫状態になっていた。校庭に植えられていたジャガイモを掘り返して、空腹のあまり根っこをかじってみたりもした。川上さんは瓊浦中学で長時間を過ごした後、さらに友人の安否を訪ねて爆心地から500mの鎮西学園近くまで足を伸ばしている。友人宅は跡かたもなかった。帰りは浦上川の東岸を南下して大波止まで至り、船で海を渡って帰宅した。川上さんは帰宅したその日から急性症状を発症している。高熱を出し、翌13日からは猛烈な下痢に見舞われた。
川上さんは1973年(昭和48年)、40歳の時突然目が見えなくなり、原田氏病と診断され、現在もその影響が残っている。その後1975年(昭和50年)には十二指腸潰瘍、1993年(平成5年)には狭心症の診断も受けている。さらに攣縮性狭心症、拘束型心筋症と続き、被爆の影響があるかもしれないと医師に言われてきた。2008年(平成20年)、動悸・息切れ・全身のむくみの発症から甲状腺機能低下症と診断された。2009年(平成21年)に甲状腺機能低下症を原爆症として認定申請したが2010年(平成22年)却下され、2011年(平成23年)提訴した。
主尋問の最後にひとこと訴えたいことはないかと問いかけられて、認定のためにこれまでも長い時間をかけられてきた、できるだけは早い判決を、と川上さんは求めた。
反対尋問はF・Nさん同様内容のないものだったが、川上さんは被爆体験記を様々な機会に書かれているようで、その記述を採り上げたり、被爆者手帳申請書記載内容も引っ張り出してきたりして、今回の原爆症認定申請書類との違いをしきりに質問されたりした。川上さんは「手記によっては書いたこともあれば書かなかったこともある」、「覚えていることで敢えて書かなかったことも沢山ある」と回答し、そんなこと当り前ではないか、それがどうしたと言うのだ、と言わんばかりに突き返した。
10分間の休憩の後、今日最後となる姫路市在住の原告塚本郁男さん(82歳、広島市で被爆)の本人尋問に移った。塚本さんの担当弁護士は同じ姫路市を拠点に活動する園田洋舗弁護士。塚本さんは園田弁護士の押す車椅子で、奥さんにも付き添われて入廷した。宣誓は座ったままでいいと言われても、敢えて杖を頼りに立ち上がり、噛みしめるように宣誓書を読み上げた。
塚本さんは被爆当時14歳、広島県立商業中学の生徒で、実家を離れて寺町にあった叔父さん夫婦の家に寄宿していた。原爆投下の瞬間は爆心地からわずか1.7kmの広島商業中学のグランドにいて、まったく遮蔽物のない中で左後方からのすさまじい爆風に襲われ、熱風を直接浴びて左半身全体を大火傷した。駆け込んだ防空壕の中では服に着いた火を生徒達同士で消し合ったりもした。防空壕を出て燃え盛る広島の市街を避けて東の方向、広島駅方向に逃げた。広島駅周辺からさらに東に向かい、尾長町あたりで救援の消防団員に救われ、バスに乗せられて芸備線沿いの矢賀小学校まで連れていかれた。救護所となっていた矢賀小学校には、死にかけた被災者が次々と運び込まれ、水を求め、水を与えられるとまもなく死んでいく多数の人々の情景を見た。
その日再び空襲警報が鳴ったので小学校近くの防空壕に移され、動けないままその夜を過ごした。翌日8月7日、目を覚ましても目も口も開けられず、火傷した左半身を上にしたまま身動き一つできない状態になっていた。誰かがズボンのお尻の部分を切り取り、垂れ流しの排便だけはできるようにしてくれていた。応急的に火傷箇所に油を塗られたりはしたが、痛みはひどく、自分の体とは思えない、ただ息をしているだけの状態だった。激痛のあまり、急性症状があったかどうかの記憶さえ定かではない。
数日後、矢賀小近くに収容されていることを叔父さん夫婦が見つけてくれ、寝たまま大八車に乗せられたりしてやっと郷里の実家に帰ることができた。しかし、実家では火傷の水ぶくれに手を触れるのも嫌がられて母屋には入れてもらえず、納屋で過ごすことを強いられた。看病はお祖母さんだけが面倒を見てくれた。火傷はなかなか治らず、苦しい日々が続いた。水ぶくれは化膿し耐え難い臭いを出した。左半身全身火傷のため寝返りもできず右臀部に大きな瘡ができた。食事ができるようになっても、左頬の化膿箇所から膿と瘡蓋が茶碗に落ちたりもした。11月の終わり頃にやっとつかまり立ちができるようになった時、左腿の血管が破れて血と膿が流れ出た。屋外に出られるようになったのは12月になってから。初めて風呂に入ったのも正月前。それでも左の足はまだ湯につけられないままだった。翌年の暖かくなった頃から初めて隣村までなんとか通院ができるようになった。
塚本さんの左半身全身の火傷はケロイドとなり、その後の塚本さんの身体に大きな障害を残し、今でも健康とはほど遠い状態が続いている。左足の親指以外の4本の指はくっついたままとなった。その写真が証拠書類として裁判官にも提示された。自衛隊にいた頃の訓練の後など左足は腫れあがり変色もした。今でも少し長く歩くと腫れあがり、体のバランスを崩し、転倒することも多い。左後頭部から首にかけては痛みや変色を避けるため直射日光を浴びることができない。左頬から後頭部へのケロイドが原因で嚥下障害を起こし、普通の食事は困難となっている。しばしば嘔吐も繰り返してきた。食べものは細かく刻んで、柔らかいものに限定し、医師からの指導と薬とで食生活は維持されている。それを支えるのは奥さんで、原爆によってもたらされた障害に一緒になって立ち向かっている。
塚本さんはケロイドのために心ない人達から多くの差別的な言葉を浴びせられたことも語った。郷里に帰りついても母屋にも入れてもらえなかった。原爆は、塚本さんの身体だけでなく、心にも深い傷を負わせたのではないかと思う。奥さんがその傷をそっと癒し続けてきたような気がしてならなかった。
塚本さんはケロイド以外にも、被爆を原因とする様々な病気を発症し、それは今も続いている。病気の一覧は証拠書類として提示されたのみで尋問で具体的に触れられる時間はなかった。それだけ多くの病気を発症しているということだ。
塚本さんはケロイドを申請疾患として2009年(平成21年)原爆症認定申請。2010年却下処分され、2011年提訴に至った。これだけの被爆体験をして、これだけ過酷な人生を余儀なくされて、どうして原爆症が認められないのかまったく理解できない。主尋問の最後に塚本さんは、「これだけひどい目にあっているのに、放っておかれるのが辛い!」と絞り出すように訴えた。

 8月2日大阪地裁第2民事部で勝訴判決が下された8人の原告の内3人は甲状腺機能低下症が申請疾患だった。3人とも被爆状況は入市及び直爆+入市。判決は国の被曝線量算定方法や基準を否定し、低線量域でも甲状腺機能低下症と放射線被爆との関連性のあることを認めた。そしてこの判断、判決を国は受け入れ、控訴しなかった。同じ地裁で、(裁判長は交代しているが)同じ第2民事部で、ほとんど同じ直爆+入市という被爆状況による、まったく同じ疾患・甲状腺機能低下症が今日また2件も争われている。こんなことがあっていいのだろうか?しかも被告は同じ厚生労働大臣であり、被告代理人までほとんど同じ顔ぶれなのだ。(名前まですっかり覚えてしまった。)
3人の原告の被爆体験証言に胸を打たれ、過酷で壮絶な人生に心を揺さぶられながらも、一方であり得ないはずの裁判を傍聴していることに、やり切れなさと、ふつふつとした怒りを禁じることができない。実際、被告側反対尋問は、原告に対して問い質すほどのこともなく、与えられた尋問時間各40分にはるかに満たない短時間で終わってしまっている。
最後の本人尋問は午後3時40分には終わり、その後会場を大阪弁護士会館に移して報告集会を行なった。原告のF・Nさんと川上さんは体調のため欠席となったが、塚本さんは奥さんと共に参加され、挨拶された。塚本さんはもちろん奥さんに対しても、そのご苦労をいたわるように拍手が送られた。今日主尋問を担当した園田弁護士、前田弁護士からも挨拶がされた。園田弁護士は今日の尋問に際して気持ちを高めるために『はだしのゲン』を読み直して臨んだそうだが、塚本さんの壮絶な体験はそれを上回る証言だったと感想を述べられた。前田弁護士は、F・Nさんが言いたいことを最大限言えるようサポートし、本人もすべて語ることができたと言っている、早く勝訴判決を届けたいと挨拶された。園田弁護士も、前田弁護士も、川上さん担当の森川弁護士も、みんな若い弁護士だ。

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最後に、愛須勝也弁護団事務局長より裁判進行協議結果も含めて今後の予定などが報告された。前回までに確認されているスケジュールに加えて新たに、第2民事部の第3のグループの医師証人尋問の日程も決まった。(下表の今後の日程表参照)そして今月中にもう一人追加提訴のあることも報告された。原告数はこれで24人となる。
残念ながら年明けの医師証人尋問からは法廷が202号大法廷から1007号法廷へ変わる。今回の裁判も傍聴者数は25人程度で、法廷変更を指示されても致し方ないのが現状だ。もう一度巻き直して支援の輪を一層広げていくことを確認し、報告集会を終了した。
第2民事部の裁判に連続して翌日の10月24日(木)、午後6時30分から大阪弁護士会館会議室にて「原爆裁判支援の夕べ・映画鑑賞とトーク」が催された。台風27号の影響によるきつい雨をついて56人の人達が参加した。第1部で原爆症認定集団訴訟の記録映画『おりづる』の鑑賞を行い、第2部で有原誠治監督(『おりづる』製作の映画監督)と元裁判官の森野俊彦さん(原爆症認定集団訴訟の大阪高裁審理を裁判官として担当)のトークが行われた。テーマは原爆症認定訴訟に関わっての認識、『おりづる』製作を通じて伝えたかったこと、放射線起因性はどう考えられてきたか、集団訴訟後も改まらない認定行政に対して、国家賠償請求について、未来を担う若い世代への期待など多岐にわたり、限られた時間ながら充実した内容で、学ぶことの多いトークだった。特に被爆者の願い実現のためにこれからどうしていくべきかについてのお二人のコメントは貴重だった。もっと国民の関心と認識を高めていくこと、福島のことも結び付けて国民一人ひとりが自らのこととして考えるようにしていくこと、これだけ積み重ねられている司法判断を国民的規模で応援されるような状況をつくっていくこと、がその要旨だった。

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 原爆裁判支援の夕べと同じ日の24日、在外被爆者への医療費全額支給を認める初の判決が大阪地裁で言い渡された。原告は韓国に住む被爆者とその遺族3人で、ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟弁護団の一員である崔信義弁護士も関わっておられる。韓国を中心にした在外被爆者の長い闘いの道のりを経ての今回の判決だ。しかもまだ原爆症認定について争うのはこれからの課題として残されている。国内被爆者と同様在外被爆者にも時間はない。“国と大阪府は控訴するな”は当然の主張だ。判決の下した精神に基づいて在外被爆者支援も積極的に改められていくべきだ。
 
ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟今後の日程
12月11日(水)
10:00
第2民事部
202
第3・4次
結審
 
10:30
第2民事部
202
第6・7・11次
本人尋問
12月12日(木)
11:10
第7民事部
806
第16次
本人陳述
 
11:30
第7民事部
806
第10次
結審
 1月21日(火)
15:00
第2民事部
宇治簡裁
第9次
本人尋問
 2月26日(水)
13:20
第2民事部
1007
第6・7・9・11次
医師尋問
 3月14日(金)
13:30
第2民事部
1007
第6次
医師尋問
 3月20日(木)
13:10
第7民事部
806
第5・8・10次
判決
 

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2013.10.27 Sun l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top