今まで裁判傍聴記を書いてきてくれた長谷川千秋さんに代わって、今回から、平信行さんの傍聴記が始まりました。
 平さんは、被爆二世ということで、傍聴記のタイトルも、「被爆二世のノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟・裁判傍聴記」です。

 2013年の年明けを区切りにノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟の傍聴日誌作成を長谷川千秋さんから引き継ぐことになりました。引き継ぐとは言っても、長谷川さんの言われる「微力」にも遠く及ばないほどの私にどれだけのことができるのか、自信はありません。しかし、裁判の実際とそこから受ける私なりの思い、感じるところを精一杯書かせていただき、被爆者のみなさんへの激励と、支援のみなさんの活動に僅かでもお役に立てればと思っています。それは足掛け10年にもわたって傍聴日誌を書き続けてこられた長谷川千秋さんのご努力に少しは応えることになるのではないかとも思っています。
 原爆症認定裁判は言うまでもなく被爆に基づく放射線を起因とする病気発症を証明し、原爆症の認定を求める裁判です。そのために原告である被爆者は思い起こせる限りの被爆状況をつぶさに語り、病気発症に至る経過を丹念に述べています。そしてほとんどの原告が、その過程での家族との関係含めた自身の辛い戦後史を振りかえらざるを得ないことにもなっています。
 私は両親が共に広島で被爆した被爆二世です。京都原水爆被災者懇談会の世話人を務めさせていただく中で昨年10月、仲間のみなさんと一緒に京都「被爆2世・3世の会」を立ち上げました。二世、三世としてどう生きるかは、被爆者である親、祖父母とどう向き合うか、何を引き継ごうとするかから始まることを実感しています。ノーモア・ヒバクシャ訴訟は被爆者のみなさんの権利と人としての尊厳を守り勝ち取る場であると共に、被爆者のみなさんの戦後の長い苦難の人生も含めた被爆体験が明らかにされ、告発され、私達がそれをしっかりと受け止め、引き継いでいく場でもあると思っています。
「被爆二世のノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟・裁判傍聴記」というタイトルは、そういう思いも込めてつけさせていただきました。
これからよろしくお願いいたします。
 京都原水爆被災者懇談会       
 京都「被爆2世・3世の会」 平 信行



 この写真は、前回の原告本人尋問の後の裁判報告集会での藤原精吾弁護団長のあいさつ。
 その右でメモを取っているのが平さん。その横が長谷川さんです。
 ちなみに、藤原団長の後ろが小松正明大阪原水協事務局長、長谷川さんの左後ろが梶本修史兵庫原水協事務局長、その右が小杉功京都原水協事務局長



 ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟は年明け1月17日午後、大阪地裁806号法廷で、第7民事部(田中健治裁判長)審理の第8次原爆症認定申請却下処分取り消し訴訟の二人の原告本人尋問が行われた。一人は松室富雄さん、83歳、神戸市在住で広島での被爆者。もう一人はS・Yさん、80歳、大阪市在住で長崎での被爆者だ。
 二人揃っての宣誓の後、まず松室さんの尋問から裁判は開始された。担当の原告代理人、杉野直子弁護士の質問に答える形で松室さんの被爆時の状況から語られていった。
 松室さんは被爆当時15歳、両親と共に3人で広島市昭和町(爆心地から約1.5キロメートル)に住んでいた。8月6日の朝は、勤務先の国鉄広島駅構内操車場(屋外)で車両検査の作業中だった。爆心地からは約2.0キロメートルとなる。ピカッと走る閃光、直後の大爆発音、爆風で地面に叩きつけられ気を失った。暫くして通行人に助け起こされたが、頭部に激痛が走り出血していた。頭に指1本が入るような穴のあく怪我をしていた。白い作業服は血で真っ赤に染まり、地面にたたきつけられた衝撃か、上下6本の前歯も折れていた。広島駅から北東方向の東練兵場へ運ばれ、そこで多くの負傷者とともにとりあえずの治療を受ける。治療といってもほとんど赤チンを塗りこむだけのことだ。頭の怪我は麻酔なしで応急的な治療を施され、あのときの激痛は今でも忘れられない。あたりは既に、全身火傷の人、しきりと水を欲しがる人、もはや息絶えた人等で溢れかえりさながら生き地獄だった。その日は少し落ち着いた夕方頃、東練兵場を出て自宅に向かった。しかし大火災で自宅方向には近づけないためその夜は比治山で一夜を明かした。
 翌日、両親を探し求めて自宅に向かった。焼け焦げた路面電車、焼けただれた電柱、電線、馬の焼死体、人間の焼死体がいたるところにころがっていた状況を記憶している。しかし自宅付近では両親と会えなかったため不安と恐怖におびえながら市内の広範囲を捜しまわった。再び広島駅方向にも歩き、そこからさらに国鉄山陽本線線路沿いに、被災者の群れの流れに押されるように横川駅方面にも歩いた。多くの被災者の歩く方向の先に両親も避難しているのではないかと思ったからだ。途中貨物列車の転覆現場などもはっきりと記憶している。
8月8日になってやっと自宅の焼け跡で両親と再会することができた。
被爆直後の1週間ほどは自宅焼け跡に建てたバラックで雨露をしのいだ。軍から支給の乾パン、自宅菜園の野菜、自宅後の井戸水などで食いつないだ。その後宇品に確保することができた空き家に移り住んだ。被爆後2日目からは急性症状が発症、鼻血、下痢、頭痛、脱毛、そして全身倦怠感に襲われた。
松室さんは被爆前までは極めて健康な少年だったが、被爆後は身体に様々な異常を来すようになった。特に全身のだるさ、持続力の低下は著しい健康障害として感じている。被爆から7~8年後、22歳~23歳頃から歯がボロボロと抜け始め、今から10年ほど前には全ての歯が抜けてしまった。頭の怪我は今も陥没痕として残っている。2000年(平成12年)頃、右目の白内障手術をしたが、現在はほとんど見えない状態になっている。
 1992年(平成4年)頃初めて狭心症の疑いがあると診断された。さらに2002年(平成14年)急性心筋梗塞で倒れてしまい、心臓バイパス手術を受けることになった。現在も治療中だが、1週間に1回程度は発作が起き、ニトログリセリンで動悸を抑える状態が続いている。
 被爆者健康手帳の取得は2008年(平成20年)であり随分と遅い。
 被告・国側の申請却下理由として示されていることなのか、喫煙習慣、糖尿病治療の状態などいくつかの点について杉野弁護士から確認されるような質問が続いた。喫煙はかって1日10本程度であり、心筋梗塞発症前頃からは減らしていた。喫煙といっても退屈しのぎの口先だけの喫煙で、肺にまで吸い込んだことはない。糖尿病は過去に尿検査で陽性反応を示したと診断されたことがあるが、投薬と食生活指導だけで維持されている程度でインシュリン投与などはしていない、と証言した。
 松室さんは2009年(平成21年)11月9日付で心筋梗塞の原爆症認定を申請。厚生労働省からは1年以上も経過した後2011年1月26日付で却下処分の通知が届いた。被爆の実態、発症疾患の経過と現在の状況、誰が見ても認定されるべきではないか。厚生労働省が自ら定める積極的認定基準そのままに該当しているのではないのか。
原告側主尋問の最後に、裁判についての思いを聞かれ、松室さんは次のように語った。福島原発事故で国は、原発から半径20キロメートル範囲などを基準に避難指示を行った。食品の安全のための残留放射線量基準なども示している。しかし広島、長崎では原子爆弾は私達の頭上で爆発したのだ。なのに何故私達には、核の被害、放射線の障害を認めないのか?その違いは何なのか?そして裁判所に対しては、多くの被爆者が苦しんでいる、一日も早い却下処分の取り消し判決をお願いしたい、と訴えた。
 松室さんは証言の最後に、誰かから質問されたわけでもなく、一つの真情を吐露された。自身が被爆者であることは妻や子供達にも隠して隠して生きてきた。差別、偏見を恐れてのことだ。語り始めてきたのはやっと最近のことだ。(被爆後63年も経過してからの手帳申請の訳はここにある。)子や孫達に原爆の影響で迷惑をかけるのではないか、差別や偏見が子や孫たちにまで尾を引くのではないか、と思うと、済まない気持ちでいっぱいだ、と。
松室さん、あなたが悪いのではない、あなたに責任などあるわけがない、とその背中に声をかけたくなるその瞬間だったが、被爆の恐ろしさ、放射線の影響の恐怖を抱きながらも我が子をこの世に誕生させた責任のようなものを抱いておられるのだろうと思うと、通り一遍の言葉などは慰めにもならないと思うしかなかった。
休憩の後、二人目の原告、S・Yさんの尋問に移った。S・Yさんには担当の原告代理人、三浦直樹弁護士が主尋問を行った。三浦弁護士は被爆2世。お母さんの原爆症認定訴訟を長崎地裁で一人で担当されており、その関係で近畿訴訟の弁護団にも加わっておられる。

 S・Yさんは両親と姉と弟の5人家族だった。当時12歳だったS・Yさんは母親と弟と3人で山口県に疎開中で、金光教稲佐教会の教会長だった父親と姉が長崎に残っていた。そのS・Yさんも夏休みには疎開先から一人で長崎市稲佐町の自宅(爆心地から2.1キロメートル)に帰り長崎の人となっていた。8月9日の朝は自宅で机に向かい母への手紙を書いている最中だった。ピカッと閃光が走り、爆風と鼓膜が破れるかと思うほどの轟音に襲われた。家の中は無茶苦茶な状態になった。近くに外出していた父がすぐに帰宅、一緒に防空壕に避難した。防空壕の中はやがて身体の皮膚は焼けただれ、どす黒い血が飴のようにこびりついた人々でいっぱいになっていった。
 その日松ヶ枝町の南造船所事業本部に出勤していた姉は帰ってこなかった。
 翌日、父はS・Yさんを連れて姉捜しに長崎市内を歩き回ることになった。性別も分からない死体がまるで焼き芋のようになって転がっている「地獄」そのものの中の行動だった。浦上川の西側を北上し、竹の久保町あたりまで歩いたが姉は見つからなかった。父の行動は、金光教信者の安否も訪ねたり、姉の同僚の所に行ったりで多方面に向かったのではないかとS・Yさんは当時のこと思い出している。途中、被災した人から突然足首を掴まれ、その恐怖から逃げるように我が家に帰った。姉は市街地の惨状を避けて山越えで一拍し、翌10日無事自宅に帰って来た。
S・Yさんは8月11日頃から急性症状を発症した。下痢、高熱、脱毛、そして耳からの出血は、その後膿となり、水のようなものに変わっていった。被爆前までは健康で元気な少女だったが、被爆後はしばしば発熱し、疲れやすい健康状態に変わってしまった。
 父は、被爆のことは誰にも言ってはいけないと強く強く言い聞かせ、家族の中でもそのことには一切ふれてはならない、タブーとして扱われる環境の中で育った。戦後姉が嫁ぎ先の大阪で出産するのを手伝うためにS・Yさんも上阪、それを機会に本人も大阪で職を見つけ、やがて1953年(昭和28年)結婚、1954年(昭和29年)に長女、1955年(昭和30年)に次女を出産した。体の不調はずっと続いていたが、結婚後も父の言いつけは厳しく守り、夫にも、夫の親にも自らの被爆のことは一切明らかにせず、ひた隠しに隠し続けてきた。
 1982年(昭和57年)健康診断で血尿および肝機能障害と診断され、幸い子や孫も健康に生まれ育って大丈夫だと判断し、今だったらまだ被爆の証言をしてくれる人もいると思い、やっとの思いで被爆者健康手帳の交付申請をすることにした。被爆から37年、原爆医療法施行(昭和32年)から25年後のことだ。
 1984年(昭和59年)には左腎臓、尿管摘出、膀胱一部摘出と3つもの手術を受けている。2009年(平成21年)甲状腺機能低下症、C型肝硬変と診断された。いずれも積極的に原爆症認定されるべき疾患である。
 被告国側の主張を念頭にしたものと思われるが三浦弁護士から喫煙習慣について、飲酒についても質問がなされ、喫煙は1日10本程度、飲酒はまったくないことが証言された。ただ深刻なのは、昔のことを思い出すと眠れなくなるため、やむなく精神安定剤を服用することもあると証言されたことだ。
S・Yさんの認定申請は2010年(平成22年)1月5日付で、こちらも1年以上の時間を経過した後2011年(平成23年)5月18日付で却下されている。
 S・Yさんは最後に裁判所に対して、被爆で苦しんでいる人はまだ沢山いる、裁判に訴えたくてもできない人もたくさんいる、この実情をしっかり汲み取ってほしい、そして原爆はダメ、核はダメだといろんな機会に声を挙げて欲しい、と訴えた。
 S・Yさんの手帳交付申請書に竹の久保町まで行った記述がないこと、父親の手帳交付申請書は8月14日入市被曝となっており8月10日の記述はないこと、などが被告代理人の反対尋問の指摘だった。S・Yさんは尋問に惑わされることなく、あくまで自身の確かな記憶に基づいてきっぱりと8月10日の行動に間違いのないことを証言した。反対尋問は、前半の松室さん同様、被爆者手帳交付申請書に記載されている被爆状況の記述との矛盾、喫煙習慣、飲酒のことが中心だった。前回12月6日の裁判でも被告・国側代理人からの反対尋問はこの二つに重点が置かれており、国が認定申請を却下する根拠、提訴された場合の反論の基本はどうもこのあたりに一律に置かれているような感触すら受ける。
 加えてS・Yさんに対しては、夏休みに入って疎開先の山口から長崎に帰ってきた日付自体に疑問があるからのような質問もしつこく浴びせられた。これに対しては原告代理人の三浦弁護士がS・Yさんが山口から長崎に帰って来た時の状況について詳しく丁寧な再質問を行い、しっかりとしたフォローがなされた。
これまでの審理でもしばしば指摘され、明らかにされてきていることだが、被爆者健康手帳の申請書には様々な歴史的事情、家庭や社会の状況を反映したまま記述されていることが少なくないことを認識する必要がある。裁判の証拠書類とするにはあまりにも多くの問題があるのではないか。申請した被爆者達はまさか将来裁判になって手帳申請書の記載内容が証拠として取り扱われるなど思いもよらずに記述している。「被爆の事実は間違いないのだから」と町内会でまとめて一括して書類作成された例などもある。それも当時の行政担当からのアドバイスも含めてあったほどだ。今回の裁判でも松室さんは被爆後63年も経過してから、S・Yさんも37年も経過してからの申請だ。しかもS・Yさんの場合、家族同士でも被爆のことを語るのは一切タブーとされ、意識的に記憶から消し去ろうとするかのような経験までしている。正確な記述に欠けるところがあっても誰もそれを責めることなどできない。これだけの時間を経なければ手帳申請すらできなかった事情、状況をこそ、私達は受け止めなければならないのではないか。

 裁判終了後、大阪弁護士会館に会場を移して報告集会が行われた。お二人の原告は今日一日の尋問で疲れ切ってしまわれ欠席となった。支援のみなさんによろしく伝えていただきたいとのメッセージが紹介され、今日一日のお二人の奮闘に拍手で応えた。S・Yさんは緊張のあまり昨夜から一睡もできずに今日を迎えたとのことだった。出廷には娘さんが付き添われた。
 報告集会では、今日の裁判を傍聴された一人の女性司法修習生が紹介され、感想を述べられた。自分の持っている知識に比して、実際の法廷での原告のお話ははるかに胸迫るものがあり、心を動かされた。これからの弁護士としての仕事の仕方について深く考えさせられるものがあった。被爆者の救済、福島の原発事故と被災者救済、反原発のとりくみと重ね合わせて考えていきたい、というものだった。被爆者、支援の人達を大いに励ます感想だったように思う。
 ついで弁護団事務局長の愛須勝也弁護士からノーモア・ヒバクシャ訴訟に新規の追加提訴のあったことも紹介された。年明け1月4日の提訴で、広島で被爆された河内長野市在住の女性。第12次の提訴なり第2民事部での審理となる。
 裁判後の進行協議の結果に基づいて、愛須弁護士より今後の裁判スケジュールが次のように報告された。来月2月8日(金)は第2民事部における最初の結審、3月7日(木)、5月16日(木)、6月6日(木)いずれも第7民事部の各原告に対応した医師尋問となる。加えて、昨年末の総選挙結果も踏まえて、国会院内集会と議員・会派に対する統一行動が2月7日(木)に予定されていることも紹介された。
 最後に藤原精吾弁護団長からのあいさつで報告集会はまとめられた。今年もいよいよ始まった。政権が変わってきな臭い匂いのする情勢となった。被爆者問題は解決しておらずいよいよこれからだ。原発の再開も狙われている。被爆者の役割がいよいよ重大になってきている。第2民事部は来月最初の結審となる、そして判決を迎える。第7民事部も今年9月乃至10月には終結となり、来春には判決を迎える予定だ。この1年みなさんと一緒に頑張っていきたい。

 「被爆2世・3世の会」を立ち上げ、会員の広がりと共にそれぞれの2世・3世の人生体験との触れ合いも広がりつつある。被爆者である親から、また祖父母からどのように被爆体験を聞かされてきたか、受け継いできたかは、当然の第一義的な触れ合いのテーマだ。そして、「何も聞かされて来なかった」、「親は多くの事を語らないまま逝った」という2世・3世がなんと多いことか。「被爆者が子や孫に体験をどのように語ったか」などという調査やデータは世の中に存在しないと思うが、京都原水爆被災者懇談会では毎年行っている会員アンケートで昨年そのことを質問した。結果は、①詳しく話したことがある48人(32.9%)、②少しは話したことがある39人(26.7%)、③話したことはない21人(14.4%)、④無回答38人(26.0%)だった。家族にすら話してこなかった被爆者がこんなに多い、ということだと思う。
 単に話さなかったのではない。話すことができなかった、隠しておきたかった、記憶の外に置いてしまいたかった、という痛切な思いの籠った家族への態度だったのだと思う。自らに対しての、そして子や孫に対しての差別や偏見を恐れ、結婚や就職、出産などへの影響を恐れてだ。
 しかし、真実を隠してきた張本人は、被害者である被爆者以前に存在する。原爆を投下したアメリカ政府自体が、それに付き従った戦後日本政府自らが、原子爆弾、核兵器、核実験の与える被害の実相・実態について徹底して隠ぺいし、被爆者に対する必要な措置一切を強権的に放置してきたのが歴史の事実であり、そのことを別のこととして扱うわけにはいかない。被爆者はいのちと健康を奪われただけでなく、隠ぺいと放置政策によってくらしも、こころも傷つけられ、多くの人が家族・社会とのきずなも断ち切られようとしたのだ。
被爆2世・3世は、被爆者の生涯にわたる真実の体験に向きあいたいと思っている。核兵器の人間に及ぼす影響のすべてについて理解し、把握したいと思っている。被爆者が自らの体験を語ることさえ許さなかったものに打ち克っていきたいと思っている。そのことによって、核兵器を廃絶し、新しい人々の歴史を創り出していく一旦を担いたいと思っている。
 ノーモア・ヒバクシャ訴訟で明らかにされる真実は、被爆2世・3世の思い、願いと重なり合う。ノーモア・ヒバクシャ訴訟は“被爆の体験と実相の継承”をし、次の時代を創造していくための、基本と言っても良い重要な舞台だ。

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2013.01.26 Sat l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top