長谷川千秋さん最後の傍聴記です。
ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟が誇る裁判傍聴記は、引き続いて、京都の被爆2世の平さんが引き継がれます。
長谷川さん、長い間、ご苦労様でした。

原爆症を国に認めさせるため歳月の壁と闘う被爆者たち
かみしめたい被団協の「核武装・軍拡を拒否する声明」


2012年12月17日(月)

 米エネルギー省の国家核安全保障局が、「核兵器のない世界」を唱えるオバマ政権下で4回目の未臨界核実験を実施したと発表(12月6日)。北朝鮮が、弾道ミサイル技術を利用した発射の中止を求めた2009年の国連安保理決議に背いて「人工衛星」打ち上げと主張してロケットを発射、物体の一部が軌道上に乗る(12月12日)。そして、12月16日、日本の第46回衆院総選挙投開票結果は、自民党が294議席獲得、自公で衆院全議席の3分の2を突破した。改憲を掲げる安倍晋三政権が発足する。戦争も、核兵器も、原発も許さない世界への道程は厳しい。国内外のこうした流れにもっとも敏感なのは被爆者だ。総選挙の公示直後、被爆者の全国組織・日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の代表理事会は「核武装、軍拡を拒否する声明」を出した。日本国民の「憲法9条支持」「脱原発」は世論調査によっても依然多数派である。声明の意義は生き続ける。2013年夏の参院選挙までひとつながりの日本の政治に向けての重いメッセージだ。以下に全文を掲げたい。
今後の国政の進路を方向づける衆院総選挙の期日前投票も始まり、有権者の真剣な選択が始まっている。
67年前、アメリカが投下した2発の原爆の残酷な被害を受け、いまなおその後遺にさいなまれている被爆者も重大な関心をもって、各政党、各候補者がうちだす政策を見守っている。
今回の総選挙で見過ごすことが出来ないのは、核武装や軍事力強化が公然と語られ、総選挙の選択肢に組み込まれていることである。
憲法「改正」とセットで自衛隊を国防軍に昇格させる政策を掲げる政党や、党首が「核を保有していない国の発言力、外交力は圧倒的に弱い」などとのべて、公然と核武装を容認する姿勢を示す政党もある。
日本国憲法は、日本が太平洋戦争を導き国の内外に重大な犠牲をもたらした反省から、第9条で、戦争放棄、戦力不保持をうたっている。国際紛争を解決する手段として、武力を使用しないだけでなく、武力ももたないと世界に宣言した。戦後67年、日本が他国の人々を1人も殺傷していないのは、憲法9条が歯止めとして強く働いているからにほかならない。
みずからの体験から核兵器による残酷な犠牲は世界のどこでも出してはならないと訴えつづけてきた被爆者は、日本の核武装、軍事力強化を断固、拒否することを声明する。
2012年12月6日 日本原水爆被害者団体協議会第370回代表理事会

ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟は12月6日午後、大阪地裁806号法廷で、第7民事部(田中健治裁判長)で審理している第5次原爆症認定申請却下処分取り消し訴訟の本人尋問が、前回10月2日に引き続いて行われた。この日は神戸市在住の平山哲夫さん(67歳)と大阪府堺市在住の中村繁幸さん(74歳)=いずれも長崎の被爆者=が出廷した。

 最初は平山さん。だが、担当の原告代理人、藤原精吾弁護士(近畿弁護団長)がまず証言台に呼んだのは、平山さんの姉の1人だった。「原告平山哲夫は昭和20年1月22日、長崎市飽ノ浦町において…末っ子として出生。長崎に原爆が投下された昭和20年8月9日には生後ようやく6ヶ月を過ぎたばかりの乳児であった」(訴状から)。平山さん自身は被爆当時のことが分かるはずもない。認定申請疾病の狭心症(2003年発症)などを晩発性障害の原爆症と認めさせるには、67年の歳月の壁を乗り越えなければならない。
 幸い大勢の家族がいた。平山さんは被爆当時、爆心地から約3.5kmの自宅で、母と7人の兄弟とともに暮らしていた(父は原爆投下前に病死)。被爆者健康手帳は1号被爆(直接被爆)となっていたが、藤原弁護士が何度か長崎に足を運び、家族ら関係者に話を聞いた結果、直爆を受けただけでなく、翌日から少なくとも2,3日は、勤労動員先の三菱長崎兵器製作所から帰ってこなかった兄を捜すため母におんぶされて爆心地付近まで入市し残留放射線を浴びたとみられることも把握できた。平山さんの被爆者手帳の申請書類は2番目の姉が代筆したもので、この姉はその後の入市にも同行しており、詳しい証言が得られた。この日はこの姉を証人に立てる予定だったが、86歳の高齢で要介護のため出廷かなわず、急きょ、その下の姉に長崎から来てもらったのだった。藤原弁護士の尋問に対し、2番目の姉の証言をきちんと裏付け、手帳の申請書類を示されると「姉の字だと思う」と確認した。被告・国側代理人の「母から哲夫さんを留守番のあなたにみてくれと言われたのではないか」との質問にも「母が連れていきました」ときっぱり。裁判官質問を含めて45分間。ピンチヒッター役を立派に果たし、長崎へ帰っていった。
 平山さんの本人尋問。被爆当時の記憶はないこと、子どものころから痩せて病弱だったこと、母は脳溢血で51歳の若さで亡くなったこと、(重傷を負ったが、約1週間後に戻ってきた)兄も60歳を待たずに心臓病で亡くなったこと、被爆者手帳の申請は2002年と遅いが、18歳で上京、働いていて、「原爆のことなどあまり知らずにきた」こと―など正直に話した。最後に裁判官席に向かって「すみやかな認定を」と訴えた。

 2人目の本人尋問は中村さん。原告側は豊島達哉弁護士が担当した。中村さんも平山さんと同じように直爆と入市被爆に遭った。ただ、被爆当時は6歳で、当時のことをしっかりと覚えていた。長崎市で生まれ育ち、両親と姉、兄との5人で暮らしていた。原爆が落ちたとき、中村さんは近所の子どもたちと爆心地から約4kmの海星中学(旧制)付近で遊んでいた。飛行機が飛んで行くのが見え、しばらくしてピカッと光り、ドーンと腹にこたえるような音と爆風。不安にかられ、家に戻った。父は仕事が休みで自宅におり、姉や兄も夕方には帰宅したが、朝から病院に行っていた母が夜になっても戻らない。翌10日、父に連れられ母を捜しに行った。豊島弁護士が主尋問で重点をおいたのは、①中村さんは母の通っていた病院名を覚えていなかったが、それはどこかの特定②被爆者健康手帳の書類に入市の事実が記載されていないのはなぜかの解明-だった。
 中村さんは、この病院には母が入院中、何度か見舞いにも行っていたこと、大きな病院で建物が何棟もあったこと、被爆翌日、父に連れられ歩いて病院を目指す途中、長崎駅の前を通ったこと、がれきの山にさえぎられ病院にたどりつけなかったが、くすぶっている病院を父ともどもこの目で見たこと―などの証言を得たのち、豊島弁護士は当時の長崎医大病院の写真を見せ、「この病院ではないか」と尋ねた。中村さんは「長崎医大病院だったと思う」と答えた。長崎医科大学は爆心地に近く、建物、病院施設、人員の全ての面で致命的な被害をこうむった。附属病院は地下1階地上3階の鉄筋コンクリート建てで、外形はそのまま残ったが、内部は各階とも完全に破壊され、さらに火災となった。死者多数。負傷者の多くが自力あるいは救出されて裏山に避難した(長崎市のWEBサイト「平和・原爆―原爆の記録」から)。母は11日夕方になって帰宅した。「街が火の海で、山で野宿し、山を越えて帰ってきた」と話したという。
 被爆者手帳には「木造家屋内で被爆した」と書かれていた。あなたの字か?との豊島弁護士の問いに、中村さんは「母の字だと思う」。なぜこうなっているのか?には「母の話だと、被爆当時は『どこに住んでいるか』『現在何人いるか』を書くように言われていた」と答えた。被告・国側代理人の反対尋問に対しても同様に答えた。母の被爆者手帳も「自宅での被爆」となっていた。田中裁判長から「いつ手帳をとったのか」との質問があった。「大阪に行く前のこと」と中村さんは即座に答えた。
 元気な少年だった中村さんは、被爆後つねに体のだるさを感じるようになった。中学卒業後すぐ就職したが長続きせず、仕事先を転々と変えた。23歳の時、大阪に出てきて、兄や姉の仕事を手伝ってきた。2005年、胃がん手術、2007年には前立腺がん手術。認定申請疾病はこの2つだ。2年以上待たされたうえ、2010年、却下された。
 田中裁判長が「次回期日は2013年1月17日(木)午後1時半から、第8次取り消し訴訟の2原告の本人尋問をする」と述べて閉廷。近畿弁護団によると、1月の8次訴訟本人尋問が終わると一区切りとなり、以降は医師尋問、最終準備書面、結審へと向かう予定だ。

 大阪弁護士会館で開かれた報告集会では、塩見卓也弁護士から悲しい知らせがあった。大阪地裁第2民事部(山田明裁判長)で係争中の義務付2次訴訟の原告の1人で京都市在住の広島の男性被爆者(77歳)が11月19日、亡くなった。難病の筋萎縮性側策硬化症(ALS)の併発で身体を動かすことができず、今年8月下旬、裁判官、原告、被告双方代理人が自宅に「出張」しての本人尋問を行っていた(裁判傍聴日誌31参照)。義務付け2次訴訟グループは11月7日、すべての証拠調べが終了、2013年2月8日の最終弁論・結審を待つばかりだったのに…。塩見弁護士は「判決まであと一息だったのに残念だ。ご家族と相談して裁判を承継していただくよう努力し、勝利判決を勝ち取ってご本人におくりたい」と話した。この出張尋問に塩見弁護士と一緒に参加した尾藤廣喜・近畿弁護団幹事長も「残念だ。戦後67年。被爆者には本当に時間がない。弁護団としても頑張っていくので、みなさんよろしく」と力をこめた。
 藤原弁護団長からは12月1日、神戸市長田区の神戸医生協南館で、長く「原爆症認定支援新聞」発行に尽力された大西正介さん(8月12日に急逝)を偲ぶつどいが開かれたことについて、会の呼びかけ人の1人として報告。「大西さんは本当に豊富な活動をされてきた。その成果を今後にぜひ生かしていきたい。ありがとうといいたい」と語った。
 原告、弁護団、支援ネットがスクラムを組んで新しい年もがんばろう。近畿の裁判闘争は、各地に再び広がってきた闘いの牽引車だ。

<近畿の法廷闘争の当面の日程>
▼2013年1月17日(木)=第7民事部審理グループ(取り消し5次・8次・10次訴訟)の弁論。午後1時半~午後5時、大阪地裁806号法廷。8次訴訟の本人尋問2人予定。閉廷後、報告集会。                   

 最後になりましたが、私の裁判傍聴日誌は、今回をもって閉じさせていただきます。新年からは京都の被爆2世、平信行(たいら・のぶゆき)さんが書いてくださいます。
 2003年8月8日の原爆症認定集団訴訟・近畿の第1陣による第1回口頭弁論に1支援者として傍聴参加し、裁判傍聴日誌を書いて以来、足かけ10年になります。この11月下旬には悪名高い「後期高齢者」に仲間入りし、気は焦れども筆がままならぬといった衰えも感じるようになりました。回を重ね、お読みいただく方がたが結構いることを実感していたので、こうした記録を投げ出すわけにはいくまい。どなたか、引き継いでくれる人はいないか。ひそかに捜していたところ、いました!
 何年も一緒に傍聴席に座ってきた京都支援ネットの一員で被爆2世の平さん。すでに2,3回書いていただきましたが、11月7日の裁判傍聴のあと、大阪弁護士会館地下の食堂で2人だけでお茶を飲み、「来年からいっさいお任せしたい」と申し入れ、快諾を得ました。
 長い間、お付き合いいただき、ありがとうございました。傍聴日誌の執筆はこれで終わりますが、私は、京都原爆訴訟支援ネットのお力でかもがわ出版から刊行していただいた「にんげんをかえせ 原爆症裁判傍聴日誌」(2010年2月)のあとがきの中で「勝つまで裁判傍聴に行こうときめました」と書きました。近畿訴訟第1陣の歴史的勝利をはじめ何度も感激を味わうことができたのはこの上ない喜びですが、裁判闘争は続いています。これもあとがきに書きましたように、「微力だが無力ではない」と自らに言い聞かせ、これからも可能な限り傍聴支援を続ける所存です。今後ともよろしくお願いいたします。
京都支援ネット 長谷川千秋

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2012.12.18 Tue l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top