被爆二世のノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟・裁判傍聴記(56)
「2017年ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟全面勝利をめざすつどい」に81人
核兵器禁止条約の採択と共に被爆者救済への道を切り開こう!
2017年6月18日(日)


6月3日(土)、「2017年ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟全面勝利をめざすつどい」が大阪グリーン会館を会場に催された。参加者は81人。
この1年、池田眞規弁護士、伊藤直子さん、肥田舜太郎先生はじめ、多くの原告、被爆者、そしてノーモア・ヒバクシャ訴訟に献身的に関わってこられた方々が永眠された。つどいの冒頭、皆様の在りし日のご活躍を偲んで参加者全員が黙祷を捧げた。

梶本さん_convert_20170618184440

つどいの前半は、「核兵器全面禁止をめざすヒバクシャの闘い」と題して、日本原水協代表理事の高草木博さんによる記念講演が行われた。被爆者が「自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おう」と生涯をかけて訴えてきた核兵器廃絶の課題、それにつながる禁止条約交渉が眼前で進行している今、深い関心と期待をもってお話を聞くことになった。

高草木さん_convert_20170618184508

高草木さんのお話は原爆症認定集団訴訟の頃の思い出から始まる。東京地裁で原告勝利判決を受け、国が控訴した際、高裁判事が、「あれほどのことがあったのだから考慮することはできないのか?」とたしなめたことがある。それはどれほどのことだったのか? それは人間にとってどういう意味を持つのか? どのような態度でそれに臨めばいいのか? という問いかけだった。 原爆症認定訴訟の場でかけられたその言葉は今、核兵器禁止をめぐる国際政治の審議の場でも同じ問いかけがされている。被爆者の72年に及ぶ体験が、国際政治の頂点に置かれ、人類全体の課題にまでされているのだ。高草木さんはまずそのことを強調された。

講演は、1990年代末からの核軍縮・核兵器禁止を求める運動の歴史にふれながら、特に昨年10月の国連総会第一委員会で採択された「核兵器を禁止するための法的拘束力のある文書を交渉する会議を国連主催で開催する決議」について分かりやすく話された。従来の化学兵器禁止条約等とは異なり核兵器禁止条約交渉会議は国連主催で行われること、明確に禁止のための法的拘束力を持たせる文書であること、全加盟国一致のコンセンサスはめざすが最後は多数決で決する(一部の国の拒否権は認めない)ことなど、その内容は画期的で歴史的なものだ。禁止条約実現をめざす国々の熱意が明らかになっている。アメリカを先頭にした核保有国のあわてぶりは相当なものだったようだが、12月の国連総会は賛成113、反対30、棄権13の圧倒的多数(79%)の賛成で提案を採択した。

続いて3月からの交渉会議第一会期の状況、5月22日発表された議長の条約草案の特徴について話された。特徴の第一は、核兵器使用の人道的影響こそが条約の立脚点とされていること、第二は、禁止項目が直接的具体的に明示されたこと、第三は、核兵器使用と実験によって引き起こされた被害と被害者の救済支援が国際政治の責任に掲げられたこと等々が説明された。第一会期では、ラテンアメリカ、アフリカ、東南アジアなど非核兵器地帯を構成する国々の代表がこぞって禁止条約賛成の発言をし、条約に反対する国々がいかに少数派で孤立しているかを際立たせた。核兵器禁止条約をめぐる大勢はもはや誰が見ても明らかであり、この大きな流れを背景に禁止条約の交渉は進められている。そのことがとても重要な点だと強調された。

日本政府は第一会期冒頭に恥ずべき態度をとり交渉会議をボイコットした。理由の一つは、北朝鮮脅威と現実的対応論、もう一つは核保有国との間の「亀裂と分断」論。しかし北東アジアの平和と安全のために何ら責任ある行動をとってこなかった日本政府に北朝鮮脅威論など語る資格はない。また核保有国への説得こそ本来日本政府に求められることなのに、それを放棄してしまった態度には世界が落胆し批判を集中している。

講演は最後に、7月7日の禁止条約交渉会議第二会期末以降の見通しなどに触れながら、圧倒的な国々が条約への調印と批准をし、そして核兵器廃絶へと向かっていくこと、その展望とそこで私たちが果たすべき役割と課題について訴えられた。核兵器の廃絶は全人類の課題、そして今だけでなく後々の将来世代にも関わる課題だ。70億の人々すべてが核兵器は二度と作らない、使わない意志を誓い合わなければならない。その意志を示し合うために「ヒロシマ・ナガサキの被爆者が訴える核兵器廃絶国際署名」の本当の意味、価値があるのではないか、と。
いま、憲法9条、戦争法廃止、沖縄新基地建設阻止、原発、格差など多くの課題で共同が発展し、政治を変える力となって前進している。こうしたとりくみと連帯して、より良く生きようとするすべての人たちの課題と結びついてとりくんでいこう。8月の原水禁世界大会が、歴史的な情勢に応えて、共同の活動を次のステップに押し上げる画期的な大会になるようにしていきたい。是非多くのみなさんに世界大会に参加されるように、と訴えられて講演は締めくくられた。

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今春以来、北朝鮮によるミサイル発射とアメリカ軍による牽制行動が続き北東アジアの「緊張」が高められてきた。そこに世界の安全保障の焦点があるかのような政府の行動と報道が行われ、人々の目も引っ張られてきた。しかし本当の焦点はそんなところにない。アメリカを先頭にした核保有軍事大国の横暴を許さず、核廃絶と非軍事同盟、外交と話し合いで世界の平和と安全を実現していこうとする圧倒的多数の国々の動向にこそ世界の流れ、大道はある。今、世界の民主主義が核保有大国とそれに追随する勢力の横暴を包囲し、追い詰めつつある。今回の講演ではそのことをあらためて学ぶことができた。被爆者と私たち被爆者救済を支援する人々の果たす重要な役割の再認識も含めて。

「勝利をめざすつどい」は続いて「ノーモア・ヒバクシャ訴訟の到達点と課題」と題した愛須勝也弁護団事務局長の報告に移った。ノーモア・ヒバクシャ訴訟は現在、係争中の原告数が全国で60人(3地裁、3高裁)。内24人の原告(2地裁、3高裁)の年内中結審が確定している。さらに15人の原告(1高裁、1地裁)も年内結審の可能性があり、全国で結審、判決が集中する大きな山場を迎えている。高齢化の進む被爆者は新規提訴する例も極めて少なくなっており、今闘っている訴訟を勝ち切らなければ、厚生労働省の狙う「被爆者が死に絶えるのを待つ」状況になりかねない事態に直面している。

愛須(集会)_convert_20170618184608

これから続く法廷はすべて傍聴席をいっぱいにしていこう。必ず正しい判決を勝ち取り、その勝訴判決を力にして厚労省に認定行政の改革を迫っていこう。最終的には日本被団協提言の、認定制度ではなく被爆者全員に保障される制度に改めていく、これが目標だ。そしてそこに到る過程でも、心筋梗塞や甲状腺機能低下症など個別疾病ごとの認定基準を被爆の実態に見合ったものに変えていくとりくみがますます重要になる。
近畿訴訟は、集団訴訟以来被爆者だけの闘いにしない、被爆者を多くの人たちが支える形でとりくんできたのが特徴だ。このとりくみ方をさらに前進させ、より多くのみなさんの参加でこれからの訴訟も闘い抜いていこうと訴えられた。

講演と報告の後は文化行事として、シンガー・ソングライター川口真由美さんによる歌のプログラムがあり、全員でひと時を楽しんだ。川口真由美さんの圧倒的歌声は被爆者と参加者を心の底から励まし勇気づけるものだった。

まゆみさん_convert_20170618184725

この日出席された原告のみなさんは5人で、一人ひとりの挨拶の後花束を贈呈して激励した。ある原告からは「最高裁に上告することになっても最後まで頑張る」との決意表明があり、その強い気持ちに拍手が送られた。

花束贈呈_convert_20170618184655

最後に西晃弁護士による閉会あいさつと、下記の3つの行動提起があり、全員で確認して、この日の「つどい」を閉会した。
① 引き続き傍聴支援のとりくみを強化し、7月13日結審を迎える高裁第13民事部判決勝利に向けた要請署名のとりくみを強めよう。
② 原爆症認定審査基準を今後裁判で争う必要のない状態(8・6確認)までにすることを今一度確認し、当初の運動の原点に立ち返って認定基準の抜本的改定を求めていこう。
③ 核兵器廃絶と脱原発社会の実現に向けて、「ヒバクシャ国際署名」の推進、2017年世界大会の成功、核兵器禁止条約採択に向けて全力を尽くそう。

司会者_convert_20170618184745

6月15日(木)早朝、天下の悪法共謀罪法案が自民、公明、維新の会によって強行採決された。平然と嘘と隠ぺいを繰り返し、良心の欠片も見せることなく民主主義を破壊しての前代未聞の強行だった。怒りを通り越して、私たちのこれからの社会はどう律せられていくのだろうかと、不安と焦燥にかられながら、この日の法廷、ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟大阪地裁第2民事部の1007号法廷に向かった。

第2民事部は今年3月以来の法廷となる。今回から裁判所体制が変わり、裁判長には新しく三輪方大裁判長が就かれた。したがってこの日の法廷は弁論の更新で、愛須勝也弁護団事務局長が意見陳述を行った。

愛須_convert_20170618184840

小西さん、松谷さんなど個別訴訟に始まる原爆症認定の訴訟の歴史は私たちも過去何度か法廷で聞いてきたが、今回はいつも以上に力のこもった、しっかりと時間をかけての陳述だったような印象を受けた。
松谷訴訟において最高裁は、最終的に福岡高裁勝訴判決を維持し、実質的に被爆者の立証責任を軽減する結論を下した。それは被爆者を救済しようとする最高裁の固い決意を伺わせるものだった。しかし国、厚生労働省はその後最高裁で勝利した松谷さんさえ救済されない認定基準を策定したため、全国の被爆者は集団認定申請、集団提訴という原爆症認定集団訴訟によって被爆者救済をはかることになった。2003年から2011年に及ぶ集団訴訟は合計30回の判決の内、1回を除く全国すべての判決で松谷最高裁判決の考え方に立脚して放射線起因性を認め、被爆者救済の判断を下してきた。その結果、2009年当時の麻生総理との間で「8・6合意」が交わされ、「今後は訴訟の場で争う必要のないよう定期協議の場を通じて解決を図る」ことが約束された。しかし厚生労働省はこの約束を反故にして、2013年12月「新しい審査の基準」を強行策定し、以後も多数の却下処分を続けてきた。却下処分に不服のある被爆者はその後も訴訟を強いられることになった。被爆者は第2の集団訴訟とでもいうべき「ノーモア・ヒバクシャ訴訟」を提訴し、全国の原告数は121人にもなった。ノーモア・ヒバクシャ訴訟においても各地で原告勝訴判決が続き、国の現行審査基準が不十分なものであることが繰り返し明らかにされている。
愛須弁護士は要旨以上のような原爆症認定訴訟の経緯について述べた後、被爆者援護法前文の全文を読み上げ、法の趣旨に立脚した判断を下すよう訴えた。現行被爆者援護法が制定されたのは1994年。あれから23年も経過し被爆者の高齢化はさらに進行している。法廷に立てない原告も増え、係争中に他界される原告も相次ぎ、記憶の減退や証拠の散逸で立証上の制約も拡大している。一審で勝訴しても無情な控訴により最終的に認定証書を手にすることなく亡くなる原告もある。被爆者にはもはや時間はない。一刻も早く被爆者救済の判決を下されるよう強く求めて陳述は締めくくられた。

閉廷後の報告集会では、新しく就任された裁判長とのやりとりや、今日の法廷についての簡単なふりかえりが報告された後、やはり今朝の共謀罪法案強行採決に対する怒りを噴き出し合う機会にもなった。尾藤廣喜弁護団幹事長が最後にまとめるように以下のあいさつを述べられた。

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共謀罪には全国の弁護士が強く反対してきた。戦前は弁護士活動さえも治安維持法によって逮捕される、そういう経験をしてきた先輩弁護士はたくさんいて、共謀罪はその治安維持法に道を開くものだからだ。これまでの刑法の考え方を根本から覆すものであり、人権を守る立場から絶対に許すことのできない法律だ。成立したからといって決して諦めてはならない。法の濫用を許さないよう、人権侵害が起きないようとりくみと対策を強めていくことが必要となる。そして何よりこれからは法律の廃止をめざしていかなければならない。
安倍政治の問題は共謀罪の問題に止まらない。特に社会保障の改悪は極めて深刻な事態を迎えようとしている。その社会保障大改悪の一環に被爆者切り捨てもある。被害者、被爆者、社会的弱者に寄り添う政治を実現するため、大きな変革の潮流を作り出していくことが本当に求められている。核兵器禁止条約交渉会議をボイコットするような政府も許してはならない。政治の流れを転換していく、大きな世論の輪を作り出していこう。その中で被爆者の問題もとりくんでいこう。

この日は国連の核兵器禁止条約交渉会議第2会期開会の日でもあった。報告集会では交渉会議成功を後押しするニューヨーク行動に日本から56人の代表団が旅立ったことも紹介された。次回法廷の7月13日(木)報告集会では核兵器禁止条約採択のビッグニュースが届いていることをみんなが期待している。

尚第2民事部の次回以降の日程は次のように決められた。次回は9月15日(金)午後3時から、次々回は11月20日(月)午後3時から。


ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟今後の日程
2017年 7月13日(木) 11:00 高裁C 第13民事部 202号 結審(原告6人)
2017年 7月14日(金) 11:00 地裁 第7民事部 806号 1人結審の予定
2017年 9月14日(木) 11:00 地裁 第7民事部 806号 弁論
2017年 9月15日(金) 15:00 地裁 第2民事部 1007号 弁論
2017年11月20日(月) 15:00 地裁 第2民事部 1007号 弁論
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2017.06.18 Sun l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top
前回のブログの続きです。
ぜひ、お読み下さい。

2014年(平成26年)1月21日の宇治簡易裁判所での本人尋問の際に提出した文書


裁判所に申し上げたいこと

 私は国の方針が終始一貫していないことに怒りを覚えます。
 それは、原爆当時、「怪我」をされた人が、身体的に弱っている時は、一定期間養生には必要であっても、ある程度すると元気になりますが、その当時の「傷口」があれば、本当に原爆を受けた者とし、認定が受けられる。そういう人たちを何人か見て知っています。
 国は、私みたいな内部的なものを患っている人たちのことをないがしろにしてきています。そういう方針に本当に腹の底から「むかっ腹」がたちます。そういうことを考えると、なんとも不条理であると感じます。なんでこんな病気をせねばならないのか、そのたびに死に直面、覚悟せねばならないのか、誠に理不尽であるとしかいいようがありません。
 私は、この件について、何か社会的に訴えるものはないかと思い、昔(小学生のころ)絵をやっていたので、この20余年間、絵を画くことに目覚めました。
 平成24年2月22日の弁護士の意見陳述のときに提出した資料2という絵は、母親と一緒の気持ちになり、母親の当時の凄絶、悲惨な状況の中、乳呑み児の私と兄弟4人(ハト)を現したものです。
 故人となった母親が、育ち盛りの5人の子どもと病気の祖母の6人を、県庁の職員として働き、どうした思いで育てたか、わかりますか。誰からも、物、金銭的な助けを借りなくて、兄弟手と手をとり、背中を丸くしていかに貧しくても正しい途を歩んできたものです。そういった貧しい生活をしながら、母親の後ろ姿を見てきました。そういった母親の人間としての無念さとか、耐え難きを耐えた真情とか、怒りというものはこういうものであったのだと思い、そういった叫びを墓場の草陰から感じながら、一緒に、私の、国の理不尽な行為に対する心の叫びとあわせ、重ねて画いたものです。
 私は、父の昔の部下の人たちから「お父さんの生まれ変わりの人間であるから、お父さんみたいな人間にならないといけないよ」とよく言われました。40歳まで精一杯働いて、「さぁ、これからだ」という時に脳出血を患いました。この30年間の間にいろんな病気をやり、毎日の訓練、リハビリの病院通いは、時には自暴自棄となり、自分の体ではないような気持になります。
よく知人に言われます。「元気であったらどういうふうな生活をしているだろうね」と。慰めと、励ましを聞きます。そして、時々、自分にむち打ってキャンパスに向かっている姿があります。自分に叱咤激励せねば、最近は画けません。そうしながら、毎日胃瘻の準備を自分で全てしながら、生きて参りました。これは大変でした。
 今まで、私を取り巻くいろんな人たちに感謝感激、特にリハビリ、ヘルパーさんには、私が落ち込んだ折に心を支えていただいて、何ともいいようのない心の温かさを感じて感激しています。こういった社会的福祉の組織を作られた国の方針には頭が下がる、今日、こんにちです。
私の叫びと一緒に、母親の墓場の草陰からの叫びを重ねて、心静かにお聞き下されば幸いかと思います。

平成26年1月13日
原野 宣弘

参考資料2 絵の説明【悲傷の月】2007(平成19)年5月


原爆平和祈念像を画くにあたり
今年は絵にちょっと変わったものを画きました。長崎の平和祈念像です。
いみじくも画いている途中で伊藤市長が倒れました。
市長の原爆に対する情熱はほとばしるほどに燃え上がる熱いものでした。
この世の原爆廃絶に対する伊藤市長の痛恨の祈念像として画きました。
私の平和祈念像とのかかわりは、父が原爆で亡くなりました。
投下後すぐに母の背におわれて(1歳未満で)父の骨の収集に行ったとか。
  身の毛のよだつ凄絶悲惨
  かえり見るさえ堪えがたい真情
  誰が平和を祈らずにいられようか!!
原野 宣弘

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参考資料3 絵の説明【ハトはどこへいく】2011(平成23)年10月

 この絵は、私たち家族の、凄絶悲惨の中で、どうあらねばならないのかと訴えているつもりです。
4羽の鳩は私の兄弟姉妹4人、エンゼルは私です。鳩の真ん中にいるのは長男、左上は長女で、左下は次女です。鏡のアームにいる鳩は次男ということで、そしてエンゼルが私です。
 鏡の中のマリア様は母親で、泣くにも泣けず、言葉にもできず、凄絶さを前にして途方に暮れている姿です。足下には父の亡骸を前にして、ただ、佇む姿。誰が想像しただろうか。そういった母親の心情を察してか、兄弟姉妹とエンゼルが、どうぞ神光を母親に与えて下さい。「おかあちゃん」兄弟姉妹そろっているし、早くこちらへ帰ってきて、お互いの道を歩もうと、魂の叫びのようなものが聞こえてきそうだ。そういった意味のある、鳩とエンゼルと光と母親の演出です。鏡の周りとか、絵の下の部分の赤色は、人間としてあるまじき行為に対する私の怒りの爆発です。 兄弟姉妹、母の心情、神光、エンゼルの意味は、どうしても「力」を入れて言わなければならない生命線なのです。
原野 宣弘
ハトはどこへいく_convert_20170609181630

参考資料4 絵の説明【旅の挙げ句に】2015(平成27)年3月

 私は現在胃瘻しながらの生活で、毎日が病との戦いながらの連続です。そうしながら画いた絵であるし、出来栄えは別としても非常に感慨深い、思い出の深い絵であると思っています。
現在手足が少し不自由してますが、キャンバスに向かう時は心を統一して真剣に向かうようにして画いています。バランスを崩して絵を台無しにしたりしないように。
今回は原爆の絵を描こうと思ったのですが、難しいのが判り、12・13年前にベニチェアに行った折りにとっておいた写真を元に画いた絵です。
 この絵の中に大きな女神を画いたのには理由があります。そのわけは、私自身訪問介護の方、訪問言語障覚士の方、第一日赤の電気治療の先生方、村山医院、武田病院、小倉のデイサービスの方、広野の福祉公社の皆様方と、ありとあらゆる人たちによって死を見つめてきた男を支えられています。自分一人で生きているのではない、皆様によって支えられて、生かされている、と自分を見つめてきた男として、自分が歩んできた人生に感謝を表さないといけないと思い、画きました。
 この絵を見ると、周りを人で囲んでいる。この舞台を借りて気持ちを表さないと思いまとした。
 「旅の揚げ句に」という題ですが、真実は皆さんにお礼を言いたくて画いた絵です。
 そこは女神がもって生まれた存在感が全てであると思います。
 どう思われますか。旅の終わりにこういうことあっていいじゃないか、と思いまして画いた絵です。
 額縁は高価なものにしましたのは、自分の努力に対するご褒美としました。
原野 宣弘

旅の揚げ句に_convert_20170609181650






2017.06.09 Fri l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top
原爆の惨禍、生きてきた証、そして平和の願いを絵に託す
原野宣(のぶ)弘(ひろ)さん
2016年1月27日(水)にお話し
京都「被爆2世・3世の会」で文章化



母に負われて死の街を彷徨う

 私は1944年(昭和19年)9月12日の生まれで、原爆が落とされた時は生後10カ月でした。ですから私には原爆の記憶など何もありません。すべて、後年になって母親や姉たちから聞かされた話です。
 私たち家族は戦争当時、長崎市水ノ浦町にある自宅に住んでいました。爆心地からは2.5㌔の距離です。家族は、父方の祖母と、両親、二人の姉と二人の兄、そして末っ子の私の8人でした。
 私の父は当時三菱造船所飽(あくの)浦(うら)工場に勤務していて、原爆が投下された8月9日も飽浦工場に出勤していました。しかし、原爆が落とされた当日も、翌日になっても父は自宅に帰って来ませんでした。家族はみんな父のことを心配しました。私の家の隣に父と同じ工場に勤める同僚の人が住んでいて、その人は10日になって帰ってきました。母はその人から父の状況について聞かされました。父は8月9日朝、空襲警報が解除になってから、飽浦工場から機械を疎開させるため、機械を大八車に乗せて、同僚十数人と共に西浦上の兵器工場に向けて飽浦工場を出て行ったとのことでした。
 この話を聞いた母は、その翌日から隣家の父の同僚の人や、三菱造船所の社員の人数人と共に父の捜索に出かけて行きました。母は生後10か月だった私を毎日背負って出かけました。乳呑み児の私を一日中家に置いておくことはできなかったからです。 私は、直射日光を避けるため日本手ぬぐいを頭にかぶせられた程度で、ほぼ裸のままの状態で母に背負われていたそうです。
 私を背負った母は、飽浦工場から西浦上の兵器工場までの間を何日も捜し歩きました。毎日夜明けから夜暗くなるまで、黒焦げになった遺体や、重なりあっている遺体、顔も判別できなくなっているような遺体を一つひとつ確認しながら父を捜し歩きました。
一週間ほど捜し続けた頃、浦上川の大橋付近(長崎市松山町・爆心地から約300メートル)で、疎開のために運搬していた機械を発見しました。その機械の周辺で、散乱する骨の中に父の弁当箱と腕時計を見つけました。そこが父の亡くなった場所でした。

 原爆によって夫を奪われた母はそれから、病気の祖母と育ち盛りの5人の子たちとの生活を支え、私を含む5人の子どもを独りで育てなければならなくなりました。県庁の職員として働きながら、凄絶で悲惨な生活を歯を食いしばってやっていきました。私たちは母の懸命に生きる姿を見ながら大きくなっていきました。
 私は長崎の高校を卒業した後、18歳で大阪に出て来て商事会社に勤めることになりました。仕事の関係で全国の地方を回ったりもしました。やがて転職もし、最終的に現在の京都府宇治市に居を構えて暮らすようになりました。

襲いかかる病気との闘いの人生

 私の姉の話によると、被爆も間もない頃、私は髪が抜けたり、その後で生えてきた髪が縮れたりしていたそうです。母も脱毛や下痢に襲われており、ずっと自宅にいた姉にも脱毛や下痢があったそうです。
 1957年(昭和32年)、私が12歳の時に原爆医療法ができて、被爆者健康手帳が発行されることになりました。母は私の分も含めて手帳の交付申請をしましたが、その時の書類に私のことを、「育ち盛りなのに、食欲がなく、疲れやすい子ども」だと書いていました。

 私は30歳代後半の頃から体がだるいことに気づくようになりました。宇治にある病院で高血圧と診断され、その頃から投薬を受けるようになりました。
 1985年(昭和60年)の年末、41歳の時、脳出血(右被殻出血)と診断され2ヶ月間入院治療を行ないました。
 1989年(平成元年)1月(44歳の時)には、仕事中に倒れて病院に緊急搬送されました。この時は2週間ほど意識が戻りませんでした。この時も脳出血(右被殻出血)と診断され約半年間入院しました。退院はしましたが、重度の言語障害と右側体幹機能障害が残ってしまいました。退院後、京都府立心身障害者福祉センター附属リハビリテーション病院に再度入院し、1年間懸命のリハビリを続けました。それからも1998年(平成10年)頃まで週3回通院してリハビリを続けました。しかし今も、言語障害と右側体幹機能障害が残っています。
 その後も、1997年(平成9年)、53歳の時には脳梗塞を、さらに同じ年に心筋梗塞を発症しました。翌年心臓カテーテル検査を行ない、2ヶ所の心臓バイパス手術を受けました。
 2002年(平成14年)には心不全で2ヶ月間、また膿胸で1ヶ月入院しています。2003年(平成15年)、59歳の時には肺水腫になり、肺の後ろにボール程度の大きさの膿瘤ができていることが分り、その除去手術のために3ヶ月入院しました。2008年(平成20年)、64歳の時には心臓バイパスがつまっていることが分り、ステント手術を受けました。
 2011年(平成23年)には甲状腺に異常が見られると診断されました。同じ年、誤嚥性肺炎のために入院しましたが、脳梗塞の後遺症で食べものが気管に入ってしまって誤嚥が治らないため、胃瘻の処置をとることになりました。今も胃瘻を続けている状態です。

 誤嚥性肺炎の病魔との戦いは言葉にもできない悲惨なものでした。この頃から介護保険制度のお世話になりましたが、私の要介護度3だけでなく、私の妻も要介護度1の認定を受けていました。要介護3の私が胃瘻しながら要介護1の妻を看るという惨憺たる生活だったのです。その苦しさは体験した本人にしか理解できないことだと思います。
今年に入って1月、6年目にしてやっとペースト食を食べられる状態になりました。今本当に生き返ったような心境なのです。生まれ変わったようになれた今日、こういうことも語られるようになった幸せにつくづく感謝したいと思っています。

私の病気は原爆が原因だ!原爆症認定を求めて

 私は爆心地から2.5㌔の自宅で直接被爆をしています。翌々日からはほぼ1週間、父を捜すため毎日、母親に背負われて爆心地付近をさまよいました。かなりの量の残留放射線を浴びたのは間違いありません。また、塵や埃を吸い込んだりして、大量の放射性物質を体内に取り込み、内部被曝をしたはずです。まだ1歳にも満たない、放射線の影響を一番受けやすい年齢でした。脱毛などの急性症状が出ているもその証です。ですから私を襲った数々の病気も原爆が原因であると思ってきました。そう思わざるを得なかったのです。

 2008年(平成20年)3月に、原爆症認定の新しい審査方針が決められ、「放射線起因性のある心筋梗塞」も積極的に認定されることになりました。そのことをきっかけに、その年64歳の時、心筋梗塞と労作性狭心症について、被爆者援護法に基づく原爆症認定を申請しました。しかし、厚生労働省は2年間も待たせた挙句、私の申請を却下処分にしました。“お前の病気は原爆とは関係ない”とされたのです。私はとても落胆しました。そして強い憤りを感じました。
 納得できない私は異議申し立てをしましたが、厚生労働省はその取り扱いを放置したままにして、なかなか結論を出してきませんでした。この頃、私の病状がまた悪化して、再び入院を余儀なくされるようになっていました。しびれを切らした私は、やむなく2011年(平成23年)の11月14日、裁判に訴えて原爆症認定を求めることにしたのです。ノ―モア・ヒバクシャ近畿訴訟といって、近畿全体で20人を超える被爆者が一緒になって集団的に闘っている裁判です。
 裁判の原告となって訴えはましたが、自分で思うようにはできない体で、いつも厳しい体調であるため、私自身が法廷に出向いて意見を述べたり、他の人の裁判を傍聴したりすることはできませんでした。「何故裁判に訴えたのか」を述べる最初の意見陳述の日は2012年(平成24年)2月22日でしたが、この時も私は法廷に出ることができず、代わって担当弁護士の稲垣眞咲さんに陳述してもらいました。お医者さんの証人尋問の時も私は出廷することができませんでした。
 このような状態なので、原告である私本人への尋問は、宇治市にある簡易裁判所で出張尋問という形で行なわれることになりました。2014年(平成26年)1月21日、厳しい体調をおして簡易裁判所まで出かけ、私の担当弁護士、国側の代理人、裁判官から、それぞれの質問に答えました。言語障害の残っている私は、短い言葉でしか返答できません。思っていることを口ではなかなかうまく言い表すことができないのです。そこで、この日の尋問のために、私の思いのたけを綴った文章を用意し、尋問の最後に稲垣弁護士から読みあげてもらいました。(資料1参照)

 裁判の判決は翌年の2015年(平成28年)1月30日でした。冷たい雨が降りしきる日でしたが、この時だけは無理をおして大阪地方裁判所に出廷し、原告席で判決を聞きました。この日は7人の原告に対する判決でしたが、4人が勝訴、私を含む3人は訴えが退けられました。まさかの敗訴です。10年前から続いているたくさんの原爆症認定裁判で、ずーっと積み重ねられてきた判決の実績や裁判の流れに背いた、まったく不当な判決でした。
 敗訴になった3人はすぐに控訴して、今は大阪高裁で控訴審を闘い続けています。(2016年1月末日現在)

 原爆症として認められないことは、「お前の病気は原爆とは関係ない」と言われることであって、それが何よりも一番悔しいことです。原爆のためにこれほど苦しい生涯を歩まなければならなかったのに、「関係ない」と言われることは、私の人生そのものを否定されるのと同じことですから。

絵に託す 生きてきた証と平和の願い

 私は45歳の時に発症した脳出血のために重い言語障害、機能障害が残り、毎日辛いリハビリをしなければならなくなりました。 50歳を過ぎた頃、そのリハビリを兼ねて絵を画くことを思い立ちました。私は小学生の頃は絵を画くのが好きで、自分でも上手だったと思っています。子どもの頃何度か賞をもらったこともあります。
 画きたいと思った絵は、長崎への思いと、平和への願いのこもった絵です。私がこのまま何もせずに死んでしまったら、自分が原爆によって体験してきたこと、それと苦闘しながら生きてきたことが何も残らなくなってしまう。何か残さなければならないと思ったのです。
 被爆者として生きてきた証を残したい、父や母や兄弟姉妹たちの体験したあの惨禍を二度と繰り返さないよう、人類が核を保有する時代を終わらせなければならない、という思いを込めて画こうと思いました。絵を画くことは、これほどの原爆の惨禍に遭い、そのため辛酸をなめるように人生を歩んできた者が、後世に画き遺して行かなければならない使命だと思ってやってきました。
絵を画き始めて20年余りになります。最初は脳梗塞、脳出血をやった後のリハビリのつもりで始めたものです。画き始めて後、サント―レ会、昭和美術会に入会して画いていた時期もありました。それらの会を退会した後で日展に応募したこともあります。京展では入選しました。
 私には絵を画くことについて特別の経歴があるわけではありません。只々、絵に対する人並ならぬ意気込みでやってきました。絵は私に天から与えられた宝物だと思っています。絵によって生まれ変わるんだと信じてやってきました。今も胃瘻していて何も食べれなくて、絵を画くのも大変です。私の経歴で人よりも少し優ると思っていることは、これだけの病気をしながらも絵を画いていることです。

 今年(2016年)長崎で個展を開くことにしました。7月19日(火)から24日(日)までの6日間、会場は長崎県美術館県民ギャラリーです。これまで画いてきた私の絵を50点展示します。長崎県への会場申込書には開催目的を次のように書きました。“私の絵を長崎の全ての人に理解して欲しい。これは亡き父親と母親へのはなむけの意志である。”
たくさんの人に観て欲しいと願っています。

参考資料:裁判所への訴えと、3つの絵の説明

 私の体験したこと歩んできたことを理解していただくために、参考資料として、裁判所に訴えた文章と、3つの絵の説明を紹介します。併せて読んでいただけましたらありがたいです。

2017.05.23 Tue l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top
被爆二世のノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟・裁判傍聴記(55)
結審を前にした死去、新たな病気の発症等 深刻さを増す被爆者の実態
裁判で争う必要のない救済制度が本当に求められている!
2017年5月14日(日)

 2ヶ月ぶりとなるノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟の法廷が5月11日(木)と12日(金)連続して開かれた。
 11日は大阪高裁第13民事部(高橋譲裁判長)の弁論期日だ。この日は冒頭裁判所の構成が変わったことが報告され、それに伴う弁論の更新がまず確認された。変わったのは右陪席の裁判官。後の報告集会で紹介されたところによると、新しく就任されたのは昨年3月大津地裁で高浜原発3、4号機の運転差し止め仮処分決定を下した山本善彦裁判官であるとのこと。原発の安全性の証明は尽くされておらず、地震・津波対策や避難計画も不十分、住民の人格権侵害の恐れがあるとした画期的な司法判断であった。この決定は今年の3月大阪高裁で取り消されることにはなるが、国や電力会社の意向におもねることなく、あくまで住民側の立場に立って下された勇気ある決定だった。全原発の速やかな廃炉・廃棄と再生エネルギーへの転換を求める人々を力強く励ますもので、“司法は生きている!”と多くの人々が評価した。原爆症認定訴訟においても、被爆者に寄り添った正当な判決に力を尽くしていただきたいと期待を大きくする。

 高裁第13民事部で争われている控訴審Cグループ(一審原告6人)の結審はすでに7月13日(木)と決められていて、この日は最終準備書面提出に向けた原告・被告双方の予定の確認が主な手続きであった。この中で2人の原告の追加準備書面と証拠書類の提出が明らかにされた。一人は川上博夫さん。川上さんの申請疾病は甲状腺機能低下症だが、あらたに皮膚がんも発症されておりそのことの訴えと資料が提出されている。もう一人の柴田幸枝さんも同様に申請疾病の甲状腺機能低下症に加えて最近胃がんの発症も発見された。これについても準備書面と証拠書類を提出することが示された。いずれも放射線起因性の何よりの証明であり、被爆者は裁判に提訴した後も病態の深刻さを増して苦しんでいることを訴えるものだ。裁判長からも「柴田さんも大変ですね」の一言がかけられ、法廷内のみんなはその言葉を印象深く聞いた。
 報告集会では結審を前にした最近の状況が簡潔に報告された。控訴審Cグループの原告の内3人が甲状腺機能低下症で一審ではその3人とも勝訴(国側敗訴)した。このため国側は甲状腺機能低下症の判決を巻き返すためターゲットを大阪高裁に絞り、国の意見を代弁する「専門家」の意見書を提出したり、紫芝(ししば)良昌医師、永山雄二医師などの「専門家」証人尋問を申請してきた。しかし裁判所は証人申請をことごとく却下、訴訟は書類だけの審査で進められてきた。国はこの期に及んでも「専門家」意見書に寄りかかった悪あがきの意見書を作成し提出している。これに対しては最終準備書面で反論を加えていく、との説明だった。

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 7月13日(木)の最終弁論ではあらためて、広島・長崎の被爆の実相を映像や写真などを使ってビジュアルに明らかにしていく予定であることも披露された。そのために陳述時間も30分確保される。書面だけでなく目で見て鮮明に理解できるよう、最新の映像技術も駆使したものになるようだ。弁護団の中に和田信也弁護士などによるプロジェクトチームが編成されて準備が進められている。被爆の実態をよりリアルに理解し、それを踏まえた判決がなされるよう求めていくとりくみだ。こうした試みにも応えて、7月13日は202号大法廷を傍聴者でいっぱいにしていきたい。
 その他2ヶ月ぶりの報告集会では各地、各人からの報告、紹介が相次いだ。
 愛須勝也弁護団事務局長からは5月7日に行われた『肥田舜太郎先生を偲ぶ会』の様子が報告された。この間、池田眞規弁護士、伊藤直子さん、肥田舜太郎先生と、原爆症認定訴訟の初期からの運動を大きく支えて来られたみなさんを相次いで失い、その悲しみは大きい。しかし肥田先生から多くの人々が核兵器廃絶運動のバトンを受け継いできた。これからも遺志を受け継いで頑張っていこうと、偲ぶ会はそのための誓いの場にもなったようだ。

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 京都からは、控訴審Cグループの原告の一人原野宣弘さんが、結審、判決言い渡しを前にして亡くなられたことが報告された。裁判はご遺族によって承継されていくことになる。原野さんは自らの機能障害克服のためにリハビリを兼ねてたくさんの絵を描かれていた。原爆の残酷さを告発し、平和を希求し、母親と兄弟達への深い愛をテーマにした作品が多く、法廷の意見陳述の場面でも紹介されてきた。ノーモア・ヒバクシャ訴訟の勝利と、被爆者の完全救済、核兵器廃絶に少しでも貢献できるよう、絵に託された原野さんの思いを披露する絵画展の開催を計画中であることが紹介された。
 京都ではまた、かって原爆症認定集団訴訟の原告として闘われた寺山忠義好さんの描かれた絵本『こぎゃんことがあってよかとか』の原画が長崎原爆資料館に寄贈されたことも紹介された。
 尾藤廣喜弁護団幹事長のまとめでこの日の報告集会を閉じた。高裁になるとどうしても原告本人の思いを直接聞く機会が少なくなる。被爆の実態というものに触れる機会も薄れてきていた。こうした事情を変えていくため、今回最終弁論で特別のチームも編成して眼で見てもらえる映像、画像の陳述を用意することにした。池田弁護士、伊藤さん、肥田先生の思いを受け継ぎながら、みんなの声を届けて訴訟に勝利して行こう。

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 6月3日は『ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟の全面勝利をめざすつどい』が開催される。この日までに高裁宛公正判決要請署名をたくさん集めて持ち寄ること、署名は7月13日の最終弁論の日に提出することもあわせて確認された。

 翌日の5月12日(金)は大阪地裁第7民事部(山田明裁判長)の弁論が行われた。第7民事部は5人の原告が係争中だが、まず今後の裁判の進め方について双方の予定と確認が行われた。その上で今回は諸富健弁護士による原告K・Sさん(90歳、京都市在住)について、要旨以下のような口頭意見陳述が行われた。
 K・Sさんは18歳の時所属する軍隊の命令で8月6日当日から広島市内に入り、11日までの6日間
市内中心部で救援活動に従事した。K・Sさんは40歳の時両目白内障を発症し、以降腹部の大動脈瘤、狭心症など様々な病気に見舞われてきた。平成22年に狭心症のため経皮的冠動脈ステント留置手術を受けている。原爆症認定申請疾病はこの狭心症だ。
狭心症は心筋梗塞と主要な原因が同じであり、これまでの同じような原爆症認定訴訟でも狭心症と心筋梗塞とは同じ機序で発症するということで放射線起因性は認められてきている。K・Sさんの場合も同様に、本来であれば積極的認定の対象範囲となるはずだ。しかし、国は総合的に検討した結果と述べるだけで具体的な理由を示すことなく却下した。狭心症という病名だけで機械的な線引きをして安易に切り捨てたのではないかと思われ、国の姿勢に怒りを禁じえない。
 K・Sさんの訴訟の審理に入ってから国は、狭心症には安定狭心症と不安定狭心症という区別のあり、K・Sさんの場合は安定狭心症だから放射線起因性は認められないのだと主張をしてきた。しかし、安定狭心症と不安定狭心症とを区別するこのような国の主張はごく最近持ち出されてきたもので、14年間にも及ぶ原爆症認定訴訟の歴史の中で過去このような主張が国からなされたことは一度もなかった。今さらこのような主張をするということは、K・Sさんの申請却下を正当化するためのなりふりかまわぬ態度と言わざるを得ない。その他国は相変わらず他原因を持ち出して言い争っているが、その実態はそれほど高くもない高コレステロール血症や高血糖、さらには加齢という、重箱の隅をつつくようなものばかりだ。
 K・Sさんは90歳。本人尋問にもしっかりと臨む予定はされていたが、今は入院を余儀なくされその見通しも立たなくなっている。国は高齢のK・Sさんをいつまで苦しめるつもりか。余生を安らかに過ごしてもらうためにも、速やかに自庁取り消しをして原爆症認定をすべきだ。被爆者の命あるうちに問題解決するよう、国の原爆症認定制度の抜本的改革を強く求める。

 報告集会では諸富弁護士に代わって久米弘子弁護士から意見書の内容、国の狭心症についての主張、K・Sさんの状況などについてより詳しい報告がなされた。K・Sさんの状態は当初の見込みより深刻で、次回期日を待たないと本人尋問の予定が立てられないとのことであった。

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 前日とこの日の2日連続の法廷とその後の報告集会で、高齢化する被爆者の深刻な実態があらためて浮き上がってきた。判決を前に亡くなられた被爆者、当初の申請疾病に加えて新たながんの発症があって追加の意見陳述を出された人、そして出廷の見通しも立たなくなっている原告と。裁判で争わないと解決できないような実態が許されるのか、今のような申請をして認定をするという制度でいいのか、被爆者の救済の在り方が根本的に問われている。早期に、政府の責任で被爆の実態に見合った救済制度を実現させていかなければならない。そのためにも差し迫った控訴審Cグループで全員の勝利を勝ち取っていくことがどうしても必要だ。以上のような尾藤弁護団幹事長のまとめを参加者全員で確認した。
 6月3日の『ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟の全面勝利をめざすつどい』をたくさんの人の参加で必ず成功させようと呼びかけられた。当日は、日本原水協代表理事の高草木博さんの記念講演「核兵器全面禁止をめざすヒバクシャの闘い」を聞いて学ぶ。愛須弁護団事務局長から「裁判の経過と勝利への展望」の報告が行われる。そしてシンガー・ソングライター川口真由美さんによる歌と演奏も予定されている。楽しくも充実した一日とし、勝利への力を培っていきたい。


ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟今後の日程
2017年 6月 3日(土) 14:00 近畿訴訟勝利をめざすつどい 大阪グリーン会館
2017年 6月15日(木) 15:00 地裁 第2民事部 1007号 弁論(原告7人)
2017年 7月13日(木) 11:00 高裁C 第13民事部 202号 結審(原告6人)
2017年 7月14日(金) 11:00 地裁 第7民事部 806号 1人結審の予定
2017年 9月14日(木) 11:00 地裁 第7民事部 806号 弁論

2017.05.21 Sun l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top
被爆二世のノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟・裁判傍聴記(54)

第7民事部医師尋問において労作性狭心症の放射線起因性を明快に証言!
肥田舜太郎先生のご冥福をお祈りいたします。
2017年3月21日(火)


 ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟は3月14日(火)が地裁第7民事部、15日(水)が地裁第2民事部と2日連続の法廷となった。第7民事部(山田明裁判長)の原告は5人、その内の一人宮本義光さん(大阪市、79歳)の審理が先行して進められており、14日は本人尋問と医師証人尋問とが同一日に行われた。

 午後1時30分開廷。奥さんに付き添われて入廷した宮本さんが証言台に着いた。主尋問は小瀧悦子弁護士が担当。実は後の報告集会で知らされたことだが小瀧弁護士はこの日がノーモア・ヒバクシャ訴訟で初めての尋問だった。宮本さんは耳があまりよく聞こえない。このため質問は大きな声を必要とし、回答も一言一言区切るようして行われた。
 尋問は、8月9日から始まる宮本さんの体験とその後の人生を一つひとつ丁寧に確認するように進められていった。宮本さんは7歳の時、長崎市稲佐町の淵神社の近く、爆心地から1.8kmで直接被爆した。翌10日本原町一本木にある母の実家を訪ねて、浦上川左岸を北上し、浦上天主堂の北側を歩いて横断した。ほぼ爆心地の最も酷い放射線の中を通り抜けたことになる。浦上天主堂の崩れ落ちた鐘楼や鐘を見つけ、父親と一緒にお祈りをしたことが強く心に残っている。宮本さんはカトリック信者であることを後で知った。体が真っ赤に焼け爛れた人たち、手指の先から皮膚が垂れ流れている人たち、真っ黒に焼け焦げて亡くなっている人や牛、「水ばくれんねぇ、水ばくれんねぇ」と声をかけてくる瀕死の人たち、生きているのか死んでいるのか分からないままにたくさんの人が水路に折り重なっていた様子など、長崎の街々、浦上の道々で遭遇した惨状を宮本さんは一つひとつ脳裏に思い浮かべながら語っていった。
 10日間ばかりを母の実家近くの防空壕で暮らした。狭い壕の中では毎日死者が出た。その中で傷ついた被爆者と体を寄せ合い、食べものを分け合い、井戸水を飲んで命をつないだ。吸引、飲食を通して内部被ばくも相当あったはずだ。直接被爆、入市被爆、内部被ばく、宮本さんはあらゆる形で、放射線を深刻なほどに浴びている。
 その後五島にある父の実家を頼ることになった。五島に渡る船の中で激しい下痢に襲われた。下痢はその後も長く宮本さんを襲い続けることになった。元々は元気でとても健康だった宮本さんだが、被爆後は虚弱になり、学校も休みがちで、怪我をした時など傷口がいつまでも治りにくい体になってしまった。
 宮本さんは平成12年(2000年)62歳の時に大腸ポリープが見つかり手術、翌平成13年(2001年)63歳で胃がんのため胃の3分の2を切除した。宮本さんとまったく一緒に被爆したお兄さんも胃がんを発症し、41歳の若さで亡くなっている。平成22年(2010年)71歳の時に脳梗塞を発症し、その後労作性狭心症と診断されて今も通院治療を続けている。原爆症認定申請の申請疾病はこの労作性狭心症だ。
 これほど明瞭で深刻な被爆の実態があるのだから、もはや事実認定について争う余地はない。反対尋問は宮本さんの下痢について医者の診察や診断があったのかとか、昭和32年の原爆被爆者調査表には下痢の記録がないけど何故なのか、などといった質問に終始した。60年も70年も前のこと、手帳の取得すら本人ではなく父親がやってくれたのであり、細かなことまで記憶に残っているはずがない。それでも宮本さんは懸命にあの頃の日々を思い出そうとし、言葉に詰まりながらも質問に答えようとした。それは、あの凄惨な被爆の実態を、なんとか国の代理人にも、裁判官にも理解してもらいたい、その一心だったように見えた。反対尋問はさらに喫煙、飲酒など昔の生活習慣のことについてもカルテと申請書との食い違いなどを細かく質問してきた。傍聴席から聞いていると「尋問のための尋問」がなされているようにしか思えなかった。

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(宮本夫妻と担当の小瀧悦子弁護士)

 この日の後半は大阪・西淀病院副院長の穐久(あきひさ)英明医師の証人尋問で、主尋問は弁護団事務局長の愛須勝也弁護士によって行われた。穐久医師は各種論文を引用する形をとりながら、心疾患を含む非がん疾患の低線量域でも放射線の影響が明らかにされていること、被爆によって免疫機能が低下することが証明されてきていること、被爆者には炎症反応がありしかも持続し被ばく線量と関係していること、また、喫煙など生活習慣があった場合でも、そのことが放射線との関係に影響するものではないことなどが証言されていった。さらに、動脈硬化や心・血管疾患の危険因子である高血圧、高脂血症、炎症自体にも放射線被ばくの関与があり、それを介して動脈硬化が促進され心・血管疾患の増加に繋がることが明らかになっていると示された。

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(医師尋問を終えた穐久英明先生)

 宮本さんの安定狭心症は心筋梗塞とは発生機序が異なるというのが国側の主張のようだが、その点も、安定狭心症であろうと不安定狭心症であろう動脈硬化性の虚血心疾患に変わりなく、安定か不安定化で区別する必要はない、と明快な証言だった。国側が絶えず持ち出してくる他原因論(喫煙、飲酒、糖尿病等)について、放射線影響研究所のLSS(寿命調査)やAHS(成人健康調査)も諸々の他原因を織り込んだ上で判断されているのであり、他原因が放射線との関係に影響を及ぼすことはないと報告されていることも説明された。
被爆の程度、生じている健康状態、証言してきた各種の知見を総合的に見て、宮本さんの狭心症の放射線起因性は間違いないと断言され、要医療性の必要性も説かれて主尋問は終わった。

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(反対尋問で厳しい異議を申し立てた尾藤廣喜幹事長)

 反対尋問では安定(労作性)狭心症と不安定狭心症とは機序が異なるとする立場から、そこにこだわった尋問がしきりにされているようだった。途中で、国側代理人から「放射線の関わらないリスクによって狭心症が発症する場合があると思いますか?」という訳か分からない質問がなされて、医療一般について問いただすような尋問になりかけた。原告側代理人席の尾藤廣喜弁護団幹事長から「異議あり!」の声が飛び、裁判長からも「様々なリスクから発症するのは当たり前でしょう。質問を変えるように」と諭される場面もあった。最後には、穐久医師が「放射線の影響を無視した前提でアレコレ質問するのはおかしいのではないですか」と反対に意見されて、国側代理人が「ああそうですか!」と半ば投げ出すような態度になり、反対尋問は打ち切るように終えられた。
 その後陪席裁判官、裁判長からも、狭心症と心筋梗塞との関係、放射線被ばくによって動脈硬化を発症する機序、全身の動脈硬化が脳梗塞にも狭心症にも至ることなどについて質問された。穐久医師の証言をより詳しく理解しようとするような質問態度だった。
報告集会には宮本さん夫妻、穐久医師、小瀧弁護士も参加されてそれぞれ挨拶があり、みなさんからも今日の尋問を労う拍手が送られた。 

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(穐久医師の尋問担当の愛須勝也弁護士)

 愛須弁護士から、宮本さんについては6月30日までに最終準備書面の提出、7月14日が最終弁論、年内に判決言い渡しとなる予定があらためて報告された。

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(新人の喜久山大貴弁護士)

 翌3月15日の第2民事部(西田隆裕裁判長)では、昨年12月27日付で自庁取り消しによって原爆症認定された淡路登美子さんの件を取り上げて意見陳述された。その内容は2月28日の第7民事部で意見陳述されたものとほぼ同じであり、傍聴記№52(2017年3月3日付)で紹介した。淡路さん本人が口頭で意見陳述する予定とも言われていたが結局この日は愛須弁護士が代理人として意見陳述を述べることになった。淡路さんは原爆症認定却下処分の取り消し請求は取り下げることになるが、損害賠償請求は引き続き求めていくことになる。原告としてこれからも頑張っていかれることに変わりない。

 この日の意見陳述を聞いていてもあらためて現行の認定行政の不公正さを強く思わざるを得ない。淡路さんが二度目の認定申請をしたのは平成20年(2008年)9月。平成22年(2010年)7月に再び却下されて、平成25年(2013年)1月に提訴した。淡路さんが却下された時に諦めてもし裁判に訴えていなかったらどうなっていたか。間違いなく却下処分が見直されたりすることはなく、すべてはそこで終わっていたはずだ。裁判に訴えたおかげで、厚生労働省はもう一度係争中の被爆者のカルテなどを調べ、淡路さんのダンピング症候群の状況などを把握し、裁判に勝ち目のないことを判断して自庁取り消しに及んだのだ。裁判に訴えることのできる人は認定を得ることができ、裁判に訴えることのできない人は泣き寝入りするしかない、そうした歪んだ行政の典型ではないか。しかも淡路さんの場合、裁判所という別の視点からの判断によって認定されたのではなく、判決の前に同じ厚生労働省が自ら誤りを認めて却下処分を翻したケースだ。被爆者が提訴できたかできなかったかによってこんな真反対の結果がもたらされる、これほど不公正で酷い話はない。

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(豊島達哉弁護士と原告の淡路登美子さん)

 昨年12月12日に行われた厚生労働大臣との定期協議では2013年12月以降の認定申請者数は4,700人、内認定された人数は3,025人と報告された。したがって却下処分された人数は1,700人ほどにもなるが、2012年以来のノーモア・ヒバクシャ訴訟を見ても提訴できた被爆者は112人でしかない。1割にもはるかに遠い6.5%だ。誰でも裁判できるわけではない事実が如実に示されている。しかも勝訴率は88.6%にも及ぶ。

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(締めの挨拶、藤原精吾弁護士)

 この歪んだ行政の実態を早く多くの国民にも知らせ、政治の場にも訴えて、一日も早くあるべき認定制度を実現していかなければならない。そのためにも闘われているノーモア・ヒバクシャ訴訟の一つひとつを完全に勝利していくことがますます重要だ。

 本稿を書いている最中に肥田舜太郎先生逝去の報が飛び込んできた。肥田先生とは個人的に面識があったわけではないが、いつも近しい人、親しく私たちを見つめていただいている先生、という思いを抱いてきた。被爆者運動や、被爆2世・3世の運動に携わってきた人たちはみんなそうだったのではないか。「被爆者は絶対に癌で死んではいけない(原爆に負けてはいけない)・・・ そのために、徹底して健康に計画的な生活をして免疫力を高め、ガン検診を頻繁に受けて、自ら放射線の影響があり得ることを自覚して、小さいうちに早く見つけて、退治すること・・・」どこかで読んだ先生のこのメッセージを印象深く覚えている。放射線の世代を超えた影響と向き合わざる得ない被爆2世・3世も、この言葉にどれだけ励まされてきたことか。
 肥田先生のご冥福を心からお祈りいたします。

肥田先生
(被爆者のために生涯を捧げられた肥田舜太郞先生
原爆症認定集団訴訟が大勝利を収めたのは、肥田先生の証言の力が大きい。
安らかにお眠り下さい。)

ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟今後の日程
2017年 5月11日(木) 11:00 高裁C 第13民事部 202号 弁論(原告6人)
2017年 5月12日(金) 11:00 地裁 第7民事部 806号 弁論(原告5人)
2017年 6月 3日(土) 14:00 近畿訴訟勝利をめざすつどい 大阪グリーン会館
2017年 6月15日(木) 15:00 地裁 第2民事部 1007号 弁論(原告7人)
2017年 7月13日(木) 11:00 高裁C 第13民事部 202号 結審(原告6人)
2017年 7月14日(金) 11:00 地裁 第7民事部 806号 1人結審の予定


2017.03.22 Wed l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top
被爆二世のノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟・裁判傍聴記(53)
「論文執筆者が自らの論文を貶めて意見書を書く」卑劣なやり方を糾弾!
福島第一原発事故から7年目の日を迎えて!
2017年3月11日(土)


 ノーモア・ヒバクシャ訴訟で争われている心筋梗塞、甲状腺疾患等の非ガン疾患の放射線起因性は、地裁ではすでに数多くの起因性を認める判決が下され原告勝訴を積み重ねてきている。それにも関わらず国は依然として争いを続け、控訴審において逆転判決に持ち込もうとする姑息な手口をとってきている。放射線起因性を認める判決の根拠の一つに採用された論文に対して、論文の執筆者に「自分の論文は放射線起因性の根拠にはならない、判決は誤りだ」と主張させ、国の求めに応じて自らの論文の価値を否定する意見書を提出させる、という卑劣なやり口で、特に控訴審において横行している。弁護団は看過できない事態だとして、3月7日(火)、ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟控訴審Cグループ(大阪高裁第13民事部・高橋譲裁判長)において、このことを徹底して糾弾するため、尾藤廣喜弁護団幹事長が意見陳述に立った。

 尾藤弁護士が今回の陳述で批判対象として取り上げたのは甲状腺疾患の専門家とされる永山雄二医師の意見書だ。永山医師は慢性甲状腺炎(橋本病)と放射線被曝との関係について述べた自らの論文の評価を自ら貶める内容で意見書を提出している。具体的には、マウスを使った動物実験は特殊なマウスに特定の条件下で放射線照射した実験だったとか、機序(メカニズム)を解析するために行った実験では積極的な結果は得られていないとか、そしてマウスを使った実験結果がヒトに対しても同様に起こるとは言えないなどと述べている。もともと起因性を認めた判決は永山論文だけを根拠にしているのではなく、数々の調査データ、研究結果に基づいて行われているのだが、永山意見書は動物実験の目的、実験計画の検討、その意義などに全く触れることなくそれらを無視して、自己の実験を意図的に貶めることだけを目的に書かれたものだ、と尾藤弁護士は厳しく批判した。

 永山意見書の問題をよりリアルに解き明かすために尾藤弁護士は、薬害スモンの原因となった「キノホルム」についての動物実験に対するチバガイキー社(以下「チバ社」)の応答実例を紹介した。尾藤弁護士はかって薬害スモン訴訟の事件を担当した弁護士で、その経験、蓄積が縦横に生かされた陳述のように見えた。尾藤弁護士の陳述を要約すると次のようになる。
1962年、スイスの獣医ハンガルトナーがエンテロヴィオフォルム(チバ社の開発したキノフォルム)投与で異常を発症した犬についてチバ社に問い合わせをした。それに対してチバ社は投与量の問題だとか食餌アレルギーによるものだと誤魔化して回答し、ヒトに対する投与については何の対応もしなかった。一方でチバ社は獣医の間に回状をまわし、エンテロヴィオフォルムはヒトのために開発されたものなので、小動物には投与しないようにと「珍妙な」警告をして事態収拾をはかろうとした。つまり犬への投与実験によって重篤な副作用結果があっても、それはヒトには当てはまらないという詭弁を使って副作用を無視し続けた。もし犬に対する投与結果をヒトに当てはめて規制を行っていれば、日本での多数のスモン患者発生はなかったと言われている。チバ社は自社の利益のために動物実験結果を無視したのだ。

 今回の永山意見書もチバ社の応答とまったく同じだ。永山医師は、ヒトで起きる可能性のある事象(害作用)についてはマウスで実験しても意味がないと決めつけ、そして発症機序(メカニズム)を解析できて初めて意味のある研究になるのだとして、放射線と慢性甲状腺炎(橋本病)の関連性を否定しようとしている。しかもチバ社の場合は第3者の獣医からの問い合わせに対して誤魔化しをしたものだが、永山医師の場合は自らの論文を自ら否定して誤魔化そうとするものであるから、チバ社以上にひどい問題で、科学者にあるまじき、許されない所業だと尾藤弁護士は批判した。

 尾藤弁護士はさらに今日の医療・科学界における動物実験の持つ重要性について、1964年採択のヘルシンキ宣言(第18回世界医師連合総会)を紹介しながら明らかにした。動物実験は合法的手段により動物福祉に配慮して倫理的に行われ、社会的認知の中で研究成果をあげなければならない(社会的に適正であること)、再現性の高い結果を得るために均質な実験動物、均質な環境や方法で行われなければならない(科学的に適正であること)などだ。さらに動物実件は「どういった事象が動物個体に発生したかの分析」(反応の検出)こそが大事なのであって、永山意見書のような「機序を解析できて初めてヒトに対しても推論可能性が出てくる」などといった考え方が認められる余地はない。ヒトとマウスとは極めて酷似していてマウスの実験動物としての適切さも十分に証明されていること、練り上げられた実験計画によって得られた知見であることなども詳しく述べられ、ヒトに応用することの科学的根拠が示された。

 永山意見書が全くのごまかしの論理であることに加えて、永山医師は自らの論文のことを「この研究結果を論文として発表した際には、何らかの結論を述べなければならないことから、末尾に『低線量放射線は、甲状腺自己免疫を増悪させる可能性が示唆される。』と記した」などと弁明にもならない、誠に見苦しい「弁明」を書いている。本来論文に誤りがあると認めるならそれはまた論文にして自己批判が展開されるべきことだが、そうではなく世間から隠れるようにして裁判所にだけこっそりと意見書として提出するなど、科学者として恥ずべき行為だと、尾藤弁護士は永山意見書と国のやり方を糾弾して陳述を締め括った。


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 報告集会では、この日の意見陳述でなぜ永山意見書批判を詳細に展開したのかについて、その背景、経緯、理由についてもう一度簡潔に報告された。地裁レベルではすでに数多くの判決も積み重ねられていて、司法判断の定説のような状況も作られている。しかし控訴審になった場合、まだまだ判決が揺らぐ可能性は残されていて、特に専門家や権威というものに対して弱さが見せられる場合もある。武田武俊さんや梶川一雄さんの逆転敗訴判決がその好例で、苦い思い出として残っている。そうはならないように、国の持ち出してくる意見書や主張の本質を裁判官にしっかりと理解してもらうために、今日の尾藤弁護士の意見書は準備されたのだ、と強調された。

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 一審原告6人が争う訴訟控訴審Cグループは次回の弁論日程が5月11日(木)、次々回が7月13日(木)と決まっていて、この日が最終弁論、結審となる予定だ。いよいよ年内にも判決言い渡しの可能性が出てきた。

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 東日本大震災、東電福島第一原発事故発生からまる6年が経過した。依然として事故の収束目途は立たず、汚染水の流失も放射線の放出も続いている。避難者は福島県だけでも未だ8万人にのぼり人々の健康と生活は深刻な事態が続いている。こうした状況にも関わらず安倍政権はこの4月、限定された帰還困難区域以外のすべての地域を避難指示解除することにしている。避難解除は損害賠償の打ち切り、住宅無料提供の終了なども伴うもので、実質的な強制帰還、被災者切り捨て以外のなにものでもない。この避難指示解除の根拠とされているのが「空間線量20㍉シーベルト/年は人体に影響しない」とする「放射能安全論」だ。本来は、原子炉等規制法や放射線障害防止法によって、許容される放射線量は1㍉シーベルト/年と厳しく定められているにも関わらず、福島第一原発では今もって緊急事態宣言が発せられたままで、それを根拠にダブルスタンダードが公然と通用している事態だ。
 この「20㍉シーベルト安全論」の押し付けに寄与しているのが、国の求めに応じていかようにも自説を展開する「専門家」「権威筋」の先生方だ。私がノ―モア・ヒバクシャ近畿訴訟と共に支援活動している福島から京都に避難している人々の裁判=原発賠償京都訴訟では、1月27日と2月17日の2回に渡って専門家証人尋問が行われた。東電・国側の証人として登場したのが、酒井一夫、柴田義貞、佐々木康人の3名で、いずれも、2014年5月にノ―モア・ヒバクシャ訴訟の判決を批判するために提出された35人連名意見書「原子爆弾による放射線被爆と健康影響に関する意見書」に名前を連ねている人たちだ。3名は、ひたすらICRPやUNSCEARの権威に頼って「放射能安全論」を主張し、原発事故被災者に実際に発生している健康障害や低線量被曝の危険性、不安に応えることはなかった。


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 今回の尾藤弁護士の意見陳述を聞いても、あらためてノ―モア・ヒバクシャ訴訟において放射線起因性を明らかにし認めさせていくことが、福島原発事故被災者の救済と放射能汚染からの防護、健康とくらしの対策にもつながっていくものであることを実感する。被爆者のための原爆症認定制度抜本改革をめざすと共に、「福島切り捨て」を許さず、原発事故被災者の完全救済、真の放射能防護対策確立、「原発ゼロ」の日本をめざしていきたいと思う。7回目を迎えた3.11の日にあたって。


ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟今後の日程
2017年 3月14日(火) 13:30 地裁 第7民事部 806号 本人・医師尋問
2017年 3月15日(水) 11:00 地裁 第2民事部 1007号 弁論(原告7人)
2017年 5月11日(木) 11:00 高裁C 第13民事部 202号 弁論(原告6人)
2017年 5月12日(金) 11:00 地裁 第7民事部 806号 弁論(原告5人)
2017年 6月 3日(土) 午後 近畿の支援のつどい(大阪グリーン 会館)
2017年 7月13日(木) 11:00 高裁C 第13民事部 202号 弁論(原告6人)
2017年 7月14日(金) 11:00 地裁 第7民事部 806号 1人結審の予定


2017.03.12 Sun l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top
意  見  陳  述  書
                   2017年(平成29年)3月7日

大阪高等裁判所第13民事部E2係御中
              控訴人兼被控訴人ら(一審原告ら)訴訟代理人
                   弁護士   尾  藤  廣  喜

1 一審被告は、甲状腺機能低下症及び慢性甲状腺炎について長瀧論文、永山論文等を引用して放射線起因性を認めた原判決が誤りであ ると主張し、長瀧論文、永山論文等は、放射線起因性を認める根拠にならないと主張しています。
 そして、今回は永山意見書(乙A642)で、永山論文について永山雄二医師自らその内容を以下のとおり低い評価をなし、さらに、慢性甲状腺炎(橋本病)と放射線被曝との間に有意な関連性が認められたとする信頼性のt高い髙い科学的知見は見当たらないと主張し、一審被告は、これを一審被告の主張として引用しているのです。
 即ち、永山医師は永山論文について、①非常に特殊なマウスに、特定の条件で放射線を照射した場合に、甲状腺炎の程度と抗サイログロブリン抗体価が上昇していることのみを明らかにしたに過ぎず、②その機序を解析するために行った実験では、何ら積極的な結果が得られてないので、その結果がヒトに対しても同様に起こり得るとまでは言うことができないなどと主張しているのです。
 このように研究者が自らの論文の内容や意義を、論文ではなく、国の求めに応じて意見書の形で自己否定するというのが、この裁判における最近の特徴になっていますが、今回の永山意見書による永山論文の否定は、以下に述べるとおり誠に見苦しいものと言わなければなりません。

2 もともと原判決は、永山論文だけを決定的根拠として甲状腺機能低下症及び慢性甲状腺炎について低線量を含めて放射線起因性を認めたものではありません。大阪高等裁判所の2008年(平成20年)5月30日判決では、自己免疫性でない甲状腺機能低下症について、成人健康調査第8報やマーシャル諸島の核実験で被曝した子どもの例をもとに放射線起因性を認めています。

3 また、そもそも、永山医師の上に述べたような意見は、動物実験を行った目的、実験計画の検討、動物実験の意義などを全く無視し、自己の実験を意図的に自ら貶めるもの以外の何ものでもありません。
 ここで思い出されるエピソードは、薬害スモンの原因となった「キノホルム」についての動物実験に対するチバガイキー社(以下「チバ社」という。)の応答です。
 これは、スイスの獣医ハンガルトナーが、1962年12月にチバ社に対し、下痢症状のある数匹の犬にエンテロヴィオフォルム(チバ社の開発したキノホルム)を与えたところ、てんかん様の発作を起こし死亡した事実をあげ、その後も2度にわたってチバ社に問い合わせを行ったところ、チバ社は、アレルギー症状に関する質問であると曲げて解釈した上で、投与した量が多かったとか、食餌アレルギーによるものとしてごまかして回答したのです。そして、チバ社は、結局、ヒトに対するエンテロヴィオフォルムの投与については、何らの対応をしなかったのですが、獣医の間には回状をまわして、エンテロヴィオフォルムは、ヒトへの投与のために開発されたもので、イヌ、ネコなどの小動物には投与すべきではないなどという誠に「珍妙なる」警告を発して事を治めようとしたのです。つまり、イヌに対する投与実験の結果、重篤な副作用がみられても、これをそのままヒトに適用することは敢えてせず、イヌ、ネコなどの小動物に対する薬の投与結果は、ヒトには全くあてはまらないなどという詭弁を使って、エンテロヴィオフォルムの投与の副作用を無視し続けたのです。
 もし、このイヌに対する投与結果をヒトに当てはめてこの段階で何らかの規制を行っていれば、日本における多数のスモン患者の発生はなかったと言われています。チバ社は、自社の利益を守ために敢えて動物実験の結果を無視したのです。

 「キノホルム」についての動物実験に対するこのようなチバ社の応答は、第三者の行ったイヌへの薬剤の投与という動物実験の結果明らかになった副作用について、開発者がイヌとヒトは違うのであるから、そのままヒトにはあたらないとの詭弁を弄して、薬剤の副作用報告を無視したものでした。ところが、本件の場合、永山医師は、ヒトで起きる可能性のある事象(害作用)についてマウスを用いた実験で推測してもあまり意味がないなどと決めつけ、さらに、その機序を解析することができて初めてヒトに対しても推論可能性のある意味のある研究となるものと考えられるといい、「自己の実験の価値を自ら否定」して、放射線と慢性甲状腺腺炎(橋本病)の関連性を否定しようとしているのですから、チバ社の応答以上に、科学者としてまさに見苦しい主張といえます。

5 もともと、動物実験は、今や広範な領域で利用され、とくに今日の医療と医療技術を支え、人類の健康や福祉の向上に貢献してきました。第18回世界医師連合総会(1964年)で採択された「ヘルシンキ宣言」によれば、ヒトを対象とする医学研究は適正な動物実験に基づいて実施させるべきであることが明記されています。つまり動物実験はヒトを対象とする医学研究の前段階として不可欠なものであるとされているのです。そして、ここでいう「適正な動物実験」とは、1つには、「社会的に適正であるこること」であり、これは、合法的手段により動物福祉に配慮して倫理的な動物実験を行い、社会的な認知の中で研究成果をあげることとされています。また、もう1つは、「科学的に適正であるこること」であり、これは、再現性の高い実験結果を得るために均質な実験動物を用い、均質な環境や方法で動物実験を行うことであるとされています。
なお、動物実験とは、「動物個体に対して処理を施し、その反応を検出する」こととされておりまして、そのメリットは、「動物個体に対して」というところにあり、個体レベルでしか現れないような複雑な現象を追跡することが可能であるところにあるとされています。
また、動物実験の原理について見れば、動物実験は、「反応の検出」といいまして「どういった事象が動物個体に発生したのかの分析」こそが大事なのであって、永山意見書にあるように、「マウスを用いた実験で再現できた事象について、さらにその機序を解析することができて、初めてヒトに対しても推論可能性のある、意味のある研究となるものと考えられる。」などというものではありません。
 しかも、本件では、マウスが実験動物として用いられていますが、ヒトとマウスの間では、90%の相同率であるとされており、お互いに極めて酷似していると言われているなど、様々な要素から、マウス・ラットは、もっとも実験動物として適切なものとされており、特に、マウス・ラットから得られた知見がヒトに応用できる科学的根拠が十分にあることが示されています。したがって、「ヒトで起きる可能性のある事象を、マウスを用いた実験で再現することは、それのみではあまり意味がない」などということはあり得ませんし、もしそうであれば、わざわざ貴重な生命体である動物を実験として使用する意味が全くありません。
 また、動物実験の場合、「事前に実験計画を練り抜く」ことが必須とされておりまして、どのような動物のどのような種類を何頭(匹)用意し、これにどういう処置を加え、どのように分析するかを予め検討しておくことが当然の前提となっています。
 本件の場合、この実験においては、「慢性甲状腺炎自然発症マウスNOD-H2h4」を用いたのですが、そのマウスを選択した理由は、「通常のマウスにヨード負荷や放射線照射をしても免疫について何の影響も現れないから」あえてこのマウスを選択したということでありまして、この選択は、事前に練った実験計画に基づくものであり、その実験の結果得られた知見をヒトに応用することについては、十分な科学的根拠があるものです。

6 以上のとおり、永山氏の主張は、チバ社の言い訳と同様に全くのごまかしの論理であります。しかも、「この研究結果を論文として発表した際には、何らかの結論を述べなければならないことから、末尾に『低線量放射線は、甲状腺自己免疫を増悪させる可能性が示唆される。』と記載した」などと言う主張を、論文ではなく、裁判所に提出する意見書の形で展開することは、科学者として恥ずべき弁明というべきです。
 なお、慢性甲状腺炎(橋本病)と放射線被曝との間に有意な関連性が認められたとする信頼性の高い髙い科学的知見は見当たらないとの主張の誤りにつきましては、控訴人第10準備書面4で詳しく述べておりますので、ご覧下さい。
以上

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2017.03.07 Tue l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top
被爆二世の
ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟・裁判傍聴記(52)
20年もの年月を費やさなければならなかった認定措置に憤り!
第2民事部自庁取り消し認定について
2017年3月3日(金)


 ノ―モア・ヒバクシャ近畿訴訟は1月11日(水)奈良地裁での出張尋問を経て、2月28日(火)、同じ第7民事部の審理が今度は大阪地裁で行われた。2月28日(火)~3月1日(水)の両日、静岡市と焼津市で2017年3.1ビキニデー集会が行われており、そちらに参加される人も多く、今回はやや寂しい傍聴席となった。

 この日の法廷では愛須勝也弁護団事務局長による意見陳述が行われた。1月11日の奈良での報告集会でも紹介されたが、第2民事部の淡路登美子さん(大阪府河内長野市、74歳)が年初めに自庁取消によって認定を得られた。そのことの経過と、そこに表れている今日の原爆症認定行政の問題点を厳しく指摘、批判したのが今回の陳述内容だった。
 淡路さんは平成6年(1994年)、51歳の時に胃がんの摘出手術をしており、翌平成7年(1995年)に原爆症認定申請したが却下された。それがもともとの始まりだった。淡路さんは2歳の時の被爆(広島市)なので被爆状況の記憶は何もない。当時のことを知っているはずの母親は認定申請の時には既に亡くなっており、被爆時11歳だった姉も認知症を患っておられるため、誰からも詳しい被爆状況など聞くことができなくなっていた。被爆者手帳に記された爆心地からの距離は4.1kmとなっていたが、なぜ4.1kmなのかも分らなかった。この頃の厚生労働省は「内規」による審査基準で2.5km以遠は線量評価ゼロとしており、放射線起因性はないと機械的に否定された却下だった。
 胃の手術後の淡路さんは後遺症に苦しむことになり、とてもつらい人生を強いられてきた。食事は一口食べただけで動悸が激しくなり、脂汗が出てきて、気分が悪くなる症状を繰り返してきた。食べることの楽しさが失われ、生きていくことの価値さえ疑ったこともあった。術後の倦怠感から勤めも続けられず術後1年で退職せざるを得なかった。医師からは「ダンピング症候群があるが仕方ない。慣れただけで決して治っている訳ではない」と言われてきた。手術から20年を越える今も経過観察のために通院し、ビタミンB12の不足や鉄欠乏性貧血などのため必要な処方を受け続けている。
 その後原爆症認定集団訴訟の一連の判決の積み重ねの結果、平成20年(2008年)積極的認定範囲なるものが設定され、がんの場合は爆心地からの距離が3.5kmまでと拡大された。淡路さんは自分の手帳に書かれている爆心地からの距離が気になり、一緒に被爆した姉妹に確かめたところ姉たちの距離は3.1kmになっていることが分った。そこで平成20年(2008年)に被爆距離訂正の旨を記載してもう一度認定申請を行なった。
 しかし、被爆距離は3.1kmに訂正することが認められたものの、原爆症認定申請は2010年に再び却下された。今度は、胃がんの手術後10年以上経過し今は医療を要する状態にないとの判断で、要医療性の欠如が却下理由だった。後遺症に苦しみ続けている淡路さんにとってこの却下処分はどうしても納得いかず、異議申し立てとそれの棄却を経て、平成25年(2013年)1月提訴に踏み切った。
 提訴から4年、この間淡路さん本人による意見陳述は一度行われたが(2013年4月)、それ以外には国からの主張書面提出は一本もなく、本人尋問も医師証人尋問も行われないまま、今回突然の認定という事態になった。しかも、本人に対しても代理人弁護士に対しても、何故認定されることになったのか、一片の説明もなく、認定が遅れたことについてのお詫びの一言もないまま、結論だけを通知する極めて官僚的な扱いだった。
 淡路さんが胃がん術後に襲われてきたダンピング症候群は、平成19年(2007年)仙台地裁、平成25年(2013年)長崎地裁、平成27年(2015年)東京地裁と、司法判断において放射線起因性、要医療性共に認められてきた実績が既にある。国は争いを続けようとする過程で淡路さんのダンピング症候群の治療の事実が明らかになってきたため、自庁取り消しで認定することに至ったのだ。
 愛須弁護士は、今回の淡路さんの事案には、今の原爆症認定をめぐる問題が集約的に表れていると、5点に渡って厳しく指摘した。具体的には、被爆者の中には今も差別を恐れて手帳申請すら躊躇する実態が存在していること(淡路さんは父親の強い反対で長く手帳の交付申請をすることができなかった)、認定基準が数次にわたって改定され認定範囲が拡大されても過去に切り捨てられた被爆者は救済されないまま放置されていること、認定に不服があれば訴訟を強いられるという「8・6合意」に反する実態、訴訟になっても証拠の散逸による立証の困難さ、国はどれだけ裁判で敗訴してもそれは個別事案の判断だとして抜本的解決をはからないまま同じ主張を繰り返していることなど。
 こうした国の誤った態度を正していくためにも、認定基準の根本的転換をせまる判決を強く求めるとして陳述は締めくくられた。
淡路さんは裁判の訴えを取り下げることになるが、第2民事部の次の法廷(3月15日)で淡路さん本人が取り下げに当たっての意見陳述を行なうことになった、と報告集会で紹介された。もともとの胃がん手術から20年を越える年月を費やさなければならなかった今回の事態。淡路さんのそのことへの思いを精一杯ぶつけて欲しいと思う。
 閉廷後の報告集会ではこの間の全国対策会議の状況が報告され、また、今後の第7民事部の日程も報告、確認された。次回3月14日(火)には原告の一人宮本義光さんの本人尋問と医師尋問が同一日に行われる。次々回は5月12日(金)が弁論、さらにその次の日程も7月14日(金)と決められた。5人の原告の内宮本さんの訴訟が先行して進められ、7月14日には結審、年内にも判決言い渡しの予定となった。



 アメリカ・トランプ大統領は就任以来人権無視の入国制限令などに引き続き、「史上最大の国防費増額」宣言をし「軍事的覇権主義」を露わにしてきた。それと連動して核兵器政策についても、「世界が核に関して良識を取り戻すまで、アメリカは核戦力を大幅に強化、拡大する必要がある」とツイッターなどで明言したことが報じられた。国連において、世界113ヶ国という圧倒的多数の国々の賛成で禁止条約交渉決議が採択されたこと、この3月からその交渉のための会議が開始されることなどまるで眼中にない“暴論”が平然と繰り広げられることに強い憤りを覚える。
 日本政府は、禁止条約は「核兵器国と非核兵器国の亀裂を深め、核兵器のない世界の実現が遠のく」などと理由を述べて、こともあろうに国連決議に反対した。トランプ大統領の宣言は、日本政府の態度など何の役にも立たない、アメリカの圧力に屈服しているだけの卑屈な言い訳でしかないことを、むしろ明らかにしているのではないか。
 今月27日(月)からいよいよ国連における核兵器禁止条約締結交渉のための会議が始まる。被爆者の悲願、核兵器廃絶を求める全世界の人々の願い実現に向けて、歴史の歯車が大きく回転していく可能性が近づいてきた。核保有国やそれに追随する一部の国々を追い詰め、核兵器禁止条約締結交渉を力強く後押しし、成功させていくために、「ヒバクシャの訴える核兵器廃絶国際署名」を一層広範な人々に訴えていきたい。被爆の実相を語り広めていくとりくみもこの機に合わせてさらに強めていきたい。そして、そのことと連携させながら、一体のものとしてノ―モア・ヒバクシャ訴訟の裁判一つひとつを必ず勝ち切っていこう。


ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟今後の日程
2017年 3月 7日(火) 14:00 高裁C 第13民事部 202号 弁論(原告6人)
2017年 3月14日(火) 13:30 地裁 第7民事部 806号 本人・医師尋問
2017年 3月15日(水) 11:00 地裁 第2民事部 1007号 弁論(原告7人)
2017年 5月11日(木) 11:00 高裁C 第13民事部 202号 弁論(原告6人)
2017年 5月12日(金) 11:00 地裁 第7民事部 806号 弁論(原告5人)
2017年 6月 3日(土) 午後 近畿の支援のつどい(大阪グリーン 会館)
2017年 7月13日(木) 11:00 高裁C 第13民事部 202号 弁論(原告6人)
2017年 7月14日(金) 11:00 地裁 第7民事部 806号 1人結審の予定


2017.03.04 Sat l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top
被爆二世のノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟・裁判傍聴記(51)
奈良の地で今年最初のノ―モア・ヒバクシャ訴訟勝利に向けた集会開催!
新年早々自庁取消による原爆症認定も!
2017年1月12日(木)


 ノ―モア・ヒバクシャ近畿訴訟の2017年最初の裁判となる大阪地裁第7民事部(山田明裁判長)の原告W・Hさん(男性、京都府在住、72歳)に対する本人尋問が、1月11日(水)、奈良地方裁判所に出張して行われた。W・Hさんが大阪まで出向くのも難しい体調のため、住まいに近い奈良地裁で行なわれることになったもの。私たちの強い要望にも関わらずこの日の尋問は非公開とされたため、傍聴することはできず、法廷の様子は、閉廷後の報告集会で聞くことになった。

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 この日の報告集会は奈良県原水協や奈良の支援の人々の手によって奈良県教育会館会議室を会場に準備された。傍聴のできない裁判ではあったが、近畿一円からたくさんの支援のみなさんが駆け付け会場は溢れるばかりとなった。地元奈良からも多くの参加者があった。
 今日の本人尋問に原告のW・Hさんは二人の息子さんに伴われてのぞまれており、その足で報告集会にも一緒に参加された。報告集会はそのW・Hさんの挨拶と感想から始められた。W・Hさんが私たちに胸の内を初めて明かされる機会となった。W・Hさんは生後1歳4ヶ月の被爆なので直接の体験記憶は何も語ることができない。記憶のないことで救われることもあるが、語れないことについての忸怩たる思いもあり、その両方がいつも心の中で交錯している。平成22年に原爆症認定申請したが却下され、異議申し立ても却下され、その段階ですべてを諦めてしまうところだったが、それでは自分の人生が終わってしまうような気がしてならなかった。そこで困難な闘いになるかもれしないことは覚悟の上で裁判に訴えてチャレンジしてみようと思い立った。幸いにも久米弘子弁護士にお目にかかることができ、たくさんの激励もアドバイスもいただいて今日までを迎えることができた。これからも気持ちを引き締めてやっていきたい。被爆者の中では最も若い部類に入ることになる。先人たちの闘いを思い抱きながら、何としても勝利したい。また、絶対悪である核兵器の廃絶に向けて多くの人々に希望が芽生えるような結果を勝ち取っていきたい。

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 尋問を終えたばかりで、体調は厳しい状況だったはずだが、発せられるメッセージはとても力強いものだった。
 続いて今日の主尋問担当の久米弁護士から、W・Hさんの被爆の状況、提訴に至る経緯、今日の尋問のことについて、まとまった紹介と報告が行われた。W・Hさんは昭和19年の生まれ、1歳4ヶ月の時、広島の爆心地から2.5kmの距離で原爆に遭った。お母さんに抱かれて授乳の最中で、母子共にガラス破片が全身に突き刺さり、全壊した家の下敷きになった。お姉さんに助け出されて辛うじて一命は取りとめることができた。今も体中に傷跡が残っている。4歳の頃まで広島に居て、その後大阪に転居した。子どもの頃からずっと体の具合が悪く、特に季節の変わり目が深刻だった。学校もよく休み、体育の授業はほとんど休んでいた。高校を卒業して就職したが、長期に休まざるを得ないことが多く、このため長くは続けられず、14回ほども転職を余儀なくされてきた。母親から、被爆者は差別されるから人には言うな、被爆者健康手帳も取得するなと言われ続けてきた。母親が亡くなった後に、お姉さんから勧められてはじめて手帳は取得した。33歳の時だった。
 W・Hさんの申請疾病は慢性腎炎(IgA腎症)で免疫性の腎炎。国側はW・Hさんに対しても他原因を主張している。高血圧、高脂血症等で、今日の尋問でもW・Hさんの腎炎は糖尿病性腎炎ではないかと、そこにこだわった質問をしていた。しかしW・Hさんは糖尿病の薬は一度も服用していない。また高脂血症自体が放射線被ばくによって発症するものであることも明らかになっており、それらのことについてこれから更にしっかりと主張していくことになる、との説明だった。
 久米弁護士は、W・Hさんの尋問態度はきちんとした回答だったと、労いを込めて紹介された。藤原精吾弁護団長もW・Hさんの気持ちがそのまま表された証言だったと評された。出張尋問であったにも関わらず裁判官は裁判長以下3名とも出席されており、尋問内容はしっかりと聞き届けられたのではないかとのことだった。
 尚、W・Hさんが提訴された際の最初の意見陳述は2015年3月10日、小林務弁護士が代読する形で行われており、その内容は傍聴記№27で紹介している。
 久米弁護士の報告の後昨年10月27日の第7民事部判決で勝訴し、その後判決確定となった地元奈良県大和高田市在住のE・Kさんから挨拶が行われた。E・Kさんは、私も3年頑張って認定を得ることができた、W・Hさんも頑張って下さい、と熱いエールを送られた。

 続いて愛須勝也弁護団事務局長から新年早々の嬉しいニュースが報告された。第2民事部で係争となっている淡路登美子さん(大阪府河内長野市、74歳)が1月4日付で、厚生労働省の却下処分自庁取消により認定されたとの報告だ。淡路さんは2013年1月に提訴、同年の4月に自ら意見陳述を述べられているが、その後本人尋問も医師証人尋問も行われないままに来て、今回いきなりの認定となった。証拠の調査や提出がなされてきた過程で淡路さんに有利な内容が続出し、国は主張書面も出さないままに争うことを諦めたようだ。弁護団にも本人にも何の連絡も説明もないまま認定通知書だけがいきなり本人に送りつけられてきたようで、そのあまりにひどい国の態度には強く憤慨されている。本人は最初振り込め詐欺ではないかと疑われたほどだ。
 淡路さんは平成6年に胃がんの手術をし、翌7年に原爆症認定申請したが却下。その後原爆症認定集団訴訟の闘いの成果で認定基準もある程度改善拡大されてきたことを背景に、平成20年に再度申請した。今度は放射線起因性は認められたが、既に術後10年以上経過しているので要医療性に欠けるという理由で却下された。2度目の申請疾病は胃がん術後後遺症だったが認定された疾病は胃がんとされている。胃がんで認定されるのなら最初の申請から今日までのこの21年はどうなるのだ、という思いは募り、怒りは増す。
 ともあれ、判決を待たずに認定されたことは嬉しいニュースであり、2017年の運動を勢いづけるものにしていこうと、参加者一同喜びを共有した。

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 報告集会では藤原団長から、年明け1月9日~10日に福島で行われた、近畿弁護団、東京弁護団、東友会の合同合宿の内容が紹介された。主要な会議内容は、一つは国側に動員された専門家を名乗る人たちの他原因論を中心にした論立てにどう反論を展開していくか、もう一つは、裁判だけに限定しない被爆者の願い実現の運動をどのように広げ変えていくか、であった。議論の過程で、原爆症認定訴訟の闘いの歴史は、原爆放射線のもたらす影響の真実を深めるものであったこと、また、被爆者だけの問題ではなく人類全体の被害に通じる問題であることを医学的にも社会的にも広めていったこと、があらためて確認された。

 国の全面的な抵抗を打ち破る必要性に迫られていること、政府の姿勢を変えられないまま被爆者の減少が進む事態は許されなくなっていること、そして被爆者が自らの体験に基づいて訴えてきた核兵器廃絶を禁止条約の締結によって実現させなければならないところまできていること、そうした意味でノ―モア・ヒバクシャ訴訟は今が最後の決戦の場であることが強調されている。
 合宿は2017年の運動の出発点となり、私たちの課題を明確にした重要な場となった。藤原団長から、今年の年末には運動の大きな前進が確認できているような、そうした1年にしていこうとのよびかけが行われた。

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 この日の報告集会ではいつもとは少し異なる新鮮な人々の紹介や行動提起も行なわれた。
 新しく弁護団に加わられた市民共同法律事務所の喜久山大貴弁護士が紹介された。喜久山弁護士は28歳。戦争を知らない世代だが、被爆者のみなさんが自らの原爆症認定だけでなく核兵器廃絶をも訴えて頑張っておられる意識の高さに感銘している、との自己紹介がなされた。

 この日のために多数駆け付けられた奈良県の支援のみなさん一人ひとりも紹介された。奈良県の被爆者の会は今はなくなっているが、今回の集会を機会に、再びみなさんが力を合わせられる機会と場を、そして被爆二世・三世の人たちのつながりも作られていくことを願いたい。
その他、国連総会決議に基づいた核兵器禁止条約の交渉開始に呼応して「ヒバクシャの訴える核兵器廃絶国際署名」を推進すること、1月28日~29日の関西原水協学校への積極的な参加、が訴えられた。6月3日(土)には大阪グリーン会館で「近畿の支援のつどい」が開催されることも紹介された。


ノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟今後の日程
2017年 2月28日(火) 11:00 地裁 第7民事部 806号 弁論(原告5人)
2017年 3月 7日(火) 14:00 高裁C 第13民事部 202号 弁論(原告6人)
2017年 3月14日(火) 13:30 地裁 第7民事部 806号 本人・証人尋問
2017年 3月15日(水) 11:00 地裁 第2民事部 1007号 弁論(原告7人)
2017年 5月11日(木) 11:00 高裁C 第13民事部 202号 弁論(原告6人)
2017年 5月12日(金) 11:00 地裁 第7民事部 806号 弁論(原告5人)
2017年 6月 3日(土) 午後 近畿の支援のつどい(大阪グリーン 会館)
2017年 7月13日(木) 11:00 高裁C 第13民事部 202号 弁論(原告6人)

2017.01.12 Thu l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top
本日は、第7民事部に継続している訴訟の原告Wさんの尋問が奈良地方裁判所に出張して行われました。

Wさんは、京都府在住の原告で大阪地裁に提訴していますが、大阪地裁まで出向いての尋問は体力的にきついため、居住地に近い奈良地裁に出張しての尋問となったものです。
弁護団は、せっかく奈良地裁で行うので、公開して実施するように申し入れましたが、裁判所は所在尋問として行うとして非公開で行われました。ただ、裁判官3人全員、弁護団、被告代理人も双方10人以上が参加していつもと同じ雰囲気の中、尋問が実施されました。

原告のWさんは、1歳4か月のときに、広島の爆心地から2.5kmの吉島町で被曝。
ご本人には記憶はないものの、お母さんやお姉さんから聞いていた話から被曝状況を再現。
授乳中に爆風でお母さんとともにガラスが突き刺さり、今も顔や腕に傷が残ること、爆風で家全体が崩れ、下敷きになったところを助け出されたという被曝状況を話されました。

Wさんの申請疾病は、慢性腎不全(Iga腎症)。
被曝後は、倦怠感が続き学校での体育も見学、疲れやすいために仕事も長続きしなかったことなど、被曝後の苦しみを供述されました。
Wさんの息子さん2人が付き添われましたが、Wさんは、「34歳くらいまで家族にも被曝のことを内緒にしており、倦怠感やだるさから家でも横になることが多かったので、家族からも怠け者と思われて理解されなかった時期もあったかもしれない、しかし、こうして二人の息子が付き添ってくれてありがたい」と供述していたときには、ご本人も二人の息子さんも涙ぐんでいました。
Wさんは、たとえ、命を取り留めたとしても、その後、長年にわたり健康状態をむしばみ、差別を恐れ、偏見に苦しむ原爆の非人道性と核兵器の廃絶を訴えられました。

国は相変わらず、高血圧や食生活、糖尿病の他原因が原因だと聞くだけ。
反対尋問の所要時間を大幅に切り上げて尋問を終えました。

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尋問後は、裁判所裏の教育文化会館で尋問終了を待った支援の皆さんと一緒に報告集会。

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尋問を担当したのは、久米弘子弁護士、小林務弁護士、諸富健弁護士の3人。
諸富弁護士は、京都弁護士会に所属していますが、地元奈良在住。
報告集会は京都の支援の会の小杉さん。

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非公開の尋問だっただけにどれだけの方が参加されるか心配しましたが、会場いっぱいの参加者。
写真には写っていませんが、昨年末、大阪地裁で勝訴され、確定した原告のEさんも参加。

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つい最近、弁護団に加入してくれた新人の喜久山大貴弁護士。
久米弁護士、諸富弁護士、塩見弁護士と同じ京都の市民共同法律事務所。
これからの活躍を期待して下さい。

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裁判傍聴記の初代執筆者の長谷川千秋元朝日新聞大阪本社編集局長も参加。
病気のため、以前のように裁判傍聴もままならないものの、今回は、お住まいの近くの奈良地裁ということで参加。
「核兵器廃絶に抵抗する安倍政治を終わらせるまで死ねない」とお元気な姿を拝見して安心しました。

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いつも傍聴してくれる元国労争議団で国際人権活動家の大矢勝さん。
奈良県山添村の出身。
最後は、大矢さんのコールで「団結がんばろう!」

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最後は藤原団長の締めの挨拶。
1月8日、9日の両日、東京弁護団、近畿弁護団、東友会、それと医師団の齋藤先生の合計22名が参加して行われた福島合宿の模様も紹介。
全世界で取り組まれているヒバクシャ国際署名と裁判、運動の力で、今年の暮れには前進を確認できるように奮闘を誓い合いました。
2017.01.11 Wed l ニュース(原爆症裁判) l コメント (0) トラックバック (0) l top