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8月6日の写真を御覧下さい。



【式典での秋葉市長の平和宣言】
最後に、核兵器廃絶 Yes!We can!
会場から盛大な拍手がわき起こりました。


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【確認書調印式1】
右から舛添厚労大臣、麻生総理、坪井被団協代表、田中被団協事務局長。
歴史的瞬間でした。


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【確認書調印式2】


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【広島弁護士会での記者会見】
田中さんが声明文を読み上げています。


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【資料館】
広島への原爆投下からの日数
最後の核実験からの日数


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【灯籠流し】
太田川に映る原爆ドーム。そして灯籠流し。

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2009.08.07 Fri l 徒然なる思い l コメント (1) トラックバック (0) l top
東京ローカルですが、文化放送の「ゴールデンラジオ」という番組の7月31日の放送で、タレントの大竹まこと氏が原爆症訴訟の情勢について語っています。
番組の一部がPodcast(ポッドキャスト)で配信されていますので、以下のサイトで聞くことができます。
http://www.joqr.co.jp/bbqr/podcast/ootake-opening090731.mp3
一週間分しか保存されていないようですので、お聞きになるのはお早い目に。

なお、「ゴールデンラジオ」のホームページは
http://www.joqr.co.jp/golden/です。
                         byとんよん
2009.08.01 Sat l 徒然なる思い l コメント (0) トラックバック (0) l top
ファッションデザイナーの三宅一生さんが、自らの被爆体験をニューヨーク・タイムズ紙に寄稿されたそうです。

三宅一生さん:「オバマさん、広島に来て」米紙に寄稿 被爆体験、初の公表(毎日新聞7月16日:抄録)
 世界的ファッションデザイナー、三宅一生さん(71)が、広島の被爆体験を初めて公にしたうえで、米オバマ大統領に8月6日の広島訪問を求めるメッセージを米紙ニューヨーク・タイムズに寄稿、14日掲載された。オバマ大統領が核兵器廃絶への決意を語ったプラハ演説に触発されたためで、同内容の書簡を大統領にも送ったという。
 同紙電子版によると、三宅さんは7歳で被爆し、「赤い閃光(せんこう)と黒い雲、逃げまどう人々の姿が今もまぶたに焼き付いており、それから3年を待たずに放射線の影響で母を亡くした」と明かした。しかし「原爆を生き延びたデザイナー」というレッテルが張られることを恐れ、広島についての質問も避けてきたという。


イッセイミヤケ(ISSEY MIYAKE)のブランドで有名な三宅一生さんです。
有名なデザイナーであることは知っていましたが、被爆者だとは初めて知りました。
三宅さんのように被爆体験を語れずに60数年間を過ごしてきた被爆者は多いはずです。

この記事を見て、ある被爆者のことを思い浮かべました。
2年ほど前に、原爆症の認定申請について相談を受けた方です。

私は被爆状況を詳しく確認していきました。
訴訟に携わってきて、被爆者に接するのに慣れていた私はどんどん質問していきました。
「どこで被爆しましたか?」
「被爆した後どんな行動を取りましたか?」
「被爆後の体調はどうでしたか?」・・・

被爆後の行動を聞いている時に、その方は泣き出しました。
嗚咽。
その当時の悲惨な状況が脳裏に蘇ってくる。
忘れようと思ったけれども忘れられない。
自分は、これまで被爆体験を誰にも語ってこなかった。
奥さんに対してすら。
初めて被爆の体験を話した。

その方が60数年間抱え込んできた苦しみを、無理に引っ張り出してしまったようで罪悪感を感じました。
しかし、話を聞き終わった後、話せてよかったと言ってもらえました。
一人きりで抱えてきた苦しみを、誰かと共有することで少し楽になれたのかなと思いました。
その方が抱えてきた苦しみは「生き延びたこと」自体です。
生きること自体が苦しみを生む。
そんな原爆をとても許せません。

その後、その方に若者に被爆体験を語ってもらうことをお願いしました。
その方の被爆体験とその後の苦しみは次の世代に伝えていくべきだと思ったからです。
しばらく迷われて、了承していただきました。

その方と同じ苦しみを抱えながら多くの方が亡くなっています。
ここにも原爆の被害があるのです。
2009.07.16 Thu l 徒然なる思い l コメント (1) トラックバック (0) l top
八月六日   峠三吉

  あの閃光が忘れえようか!
  瞬時に街頭の三万は消え
  圧しつぶされた暗闇の底で
  五万の悲鳴は絶え

  渦巻くきいろい煙がうすれると
  ビルデイングは裂け、橋は崩れ
  満員電車はそのまま焦げ
  涯しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島

  やがてぼろ切れのような皮膚を垂れた
  両手を胸に
  くずれた脳漿を踏み
  焼け焦げた布を腰にまとって
  泣きながら群れ歩いた裸体の行列

  石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
  つながれた筏へ這いより折り重なった河岸の群も
  灼けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
  夕空をつく火光の中に
  下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
  焼けうつり

  兵器廠の床の糞尿のうえに
  のがれ横たわった女学生らの
  太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
  誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
  すでに動くものもなく
  異臭のよどんだなかで
  金ダライにとぶ蝿の羽音だけ

  三十万の全市をしめた
  あの静寂が忘れえようか
  帰らなかった妻や子のしろい眼窩が
  俺たちの心魂をたち割って
  込めたねがいを
  忘れえようか!


小西さんによる朗唱。

2009.07.08 Wed l 徒然なる思い l コメント (0) トラックバック (0) l top
 岩波新書に池内了著、「疑似科学入門」(2008年4月22日 第1刷発行)と言う本があります。
 この本は、一般に「ニセ科学」「エセ科学」「トンデモ科学」「超常科学」と呼ばれているものを一括して「疑似科学」と名付け、
  第1種疑似科学
    科学的根拠のない言説によって人に暗示を与えるもの(占い、超能力等)
  第2種疑似科学
    科学を援用・乱用・誤用・悪用したもので科学的装いをしながらその実体のないもの
    (永久機関・マイナスイオン等)
  第3種疑似科学
    「複雑系」であるがゆえに科学的に証明しづらい問題について、
    真の原因の所在を曖昧にする言説
の3つに分類して論じているものです。

 とりわけ第3種疑似科学について興味深い内容が書かれています。
 著者は、「現代科学には、有効性を発揮している得意分野ばかりではなく、明確な判断を直ちには下せない不得意な分野がある。」と言い、系が単純なため理想状態を扱える場合は系を構成する各要素に分解してそれを理想状態で徹底的に調べ上げれば(要素還元主義)、全体が把握できるケースがある。これは科学が得意とする分野であるとし、
 これに対して、気象や気候変動、環境問題や生態系など、系を構成する要素が数多くあり、それぞれの要素が複雑に絡み合っていて解きほぐすことができなかったり、集団として新しい運動が発生したりするため、各要素を理想状態として単独で取り出すことが不可能な場合は要素還元主義が適用できず全体を総合的に見る観点が必要で、これらを「複雑系」の科学と呼ぶと書いています。
そして、

 かつて、フロンがオゾン層を破壊するとしてモントリオール議定書が結ばれようとしたとき、日本政府は「科学的な証明がされていない」という理由で直ちに批准する措置をとらなかった。また、BSEがイギリスだけでなくヨーロッパに広がりつつあったとき、ヨーロッパ連合から調査書が送られてきたのだが、やはり日本政府は「科学的な根拠に欠ける」として調査に協力しなかった。結果に対して明白に原因を指し示す要素還元主義の科学に固執して、「複雑系」に関わって少しでも曖昧な部分があれば「科学的根拠なし」として切り捨ててきたのである。原因と結果が一対一対応をしていない限り科学的とは認めない態度、これは科学の範囲を狭く閉じこめた疑似科学的発想といえるであろう。

 また、水俣病訴訟では最高裁判決で、原爆訴訟ではいくつもの一審判決で、これまでの患者認定基準を改訂すべきことが勧告されたにもかかわらず、環境省や厚生労働省は頑なに従来の基準を改めようとしていない。これまでの基準は、それなりの根拠を持って策定されたのは事実だろう。しかし、限界があることは明白である。水俣病にしろ、原爆疾患にしろ、まだ全容が知られていない病気だから、わかっていないことが多くある。集団でこれほどの被害を受けたことがないからだ。その点を認識して、病態変化や新たな病状の発現を常に監視し、新しく得られた知見を付け加えて基準を改訂しなければならない。人間の肉体は「複雑系」だから、病気によってどのような推移を辿るかが単純に決めつけられないのである。個人差も大きい。しかし、役人は古い基準を確固としたものとして遵守し、新しい基準の要請には「科学的に証明されていない」として改めようとしないのだ。これも人間が複雑系であることを理解せず、疑似科学に固執していると言うべきだろう。

  諫早湾の埋め立てで海水が濁り、多くの海苔や貝の養殖業者が廃業に追い込まれている。潮受け防波堤を建設してから数年も経っての被害だから、直接それが原因であると証明できない。「複雑系」では多数の要素が間に介在するから、時間の遅れを伴って現象が現れることがたびたびである。そのため原因と結果が時間的にも空間的にも離れており、堤防の締め切りが「原因であろう」としか言えないのだ。埋め立てを行った農林水産省は「原因ではない」と主張して堤防を開けようとしない。生態系は典型的な複雑系だから、結果から原因を「科学的に証明しづらい」のである。農水省はそれを利用しているのだ。

   政府や役人が使っている手口の例を挙げた。いずれも現代科学が不得手な複雑系に絡む問題であり、それを曲解・誤用・悪用して「科学的根拠なし」という結論を導き出す点が共通している。第3種疑似科学の典型であろう。

(上記引用文中、アンダーラインは私が引きました)
 厚生労働省が「科学的」と主張している内容が、実は全く科学の名に値しないものであること、そして科学を装うこのような手口は国の常套手段であることを鋭く指摘していると思い、ご紹介した次第です。

追記: N森さんへ。
     4日、高槻で行われた憲法ミュージカルを見に行きました(劇場で会ったね)。
     今回のミュージカルはとてもわかりやすくて、内容もよかったです。
     歌や演技にとても迫力がありました。
     演技者の訴えが舞台の上からビンビンと伝わってきました。
     後2回公演(八尾と河内長野)がありますね。
     がんばってくださいね。  
                                          BY とんよん
2009.07.05 Sun l 徒然なる思い l コメント (4) トラックバック (0) l top
 2001年6月5日、日本被団協は「21世紀 被爆者宣言」を採択しました。
 被爆者の思いを端的に知ることができますのでご紹介します。

21世紀被爆者宣言~核兵器も戦争もない世界を~
 「ふたたび被爆者をつくるな」-私たち被爆者は、こう訴えつづけて、21世紀を迎えました。
 あの日、1945年8月6日、9日。アメリカが投下した二発の原爆は、広島・長崎を一瞬にして死の街に変えました。生きたまま焼かれ、肉親を助けることもできず、いったんは死の淵から逃れた者も、放射線に冒されて次々に倒れていきました。人の世とは思えない惨状でした。 ”原爆地獄”から生き残った私たちも今なお心と体の苦しみにさいなまれつづけています。原爆の放射能被害は世代を越えていつまで及ぶのでしょうか。
 原爆は人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許さない、絶滅だけを目的とした絶対悪の兵器です。被爆者が人間として生きるには、原爆を否定するほかに道はありません。
 被爆者はこの半世紀、苦しみをのりこえ、世界に原爆被害の実相を語り、「ふたたび被爆者をつくるな」と訴えてきました。被爆者の訴えは「核兵器廃絶」の世論と運動となって広がり、世界の大きな流れとなっています。広島・長崎以後、核兵器の実戦使用は阻まれてきました。世界の世論と運動こそが、核戦争の抑止力になっているのです。


 憲法が生きる日本、核兵器も戦争もない21世紀を―。私たちは、生あるうちにその「平和のとびら」を開きたい、と願っています。
 日本国政府が戦争責任を認めて原爆被害への国家補償を行い、非核の国・不戦の国として輝くこと。アメリカが原爆投下を謝罪し、核兵器廃絶への道に進むこと―。
 そのとびらを開くまで、私たち被爆者は、生き、語り、訴え、たたかいつづけます。


 オバマ発言により核兵器廃絶への道筋は見えてきました。
 被爆者が生きているうちになんとかしたいものです。

 全文はこちら→21世紀被爆者宣言

2009.07.04 Sat l 徒然なる思い l コメント (3) トラックバック (0) l top
 日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のホームページに、
 web gallery「原爆と人間展」があります。

     bana-gallery.gif

原爆(核兵器)の被害について、写真と証言を交えてわかりやすく構成されています。
一度じっくりご覧下さい。
   第1部「今も 世界で
    第2部「あの日 あの時
     第3部「苦しみ 怒り
      第4部「たたかい 生きる

 「生きていてよかった」←この写真と文章は、被爆者の平和への強い願いが伝わってきて胸を打ちました。

(日本被団協HPより)

この原爆展は、被爆から半世紀が過ぎたいま、なぜ新しい原爆展パネルをつくるかという討論をもとに企画されたもので、「あの日、あの時」にとどまらず、50年にわたる被爆者の苦悩、そのなかでの被爆者のたたかいが浮かび上がるように構成されています。

2009.06.28 Sun l 徒然なる思い l コメント (0) トラックバック (0) l top
第一次訴訟の原告佐伯俊昭さん。(写真は一審判決直後)
佐伯さん_320

佐伯さんは、平成10年に喉頭腫瘍が発見され、腫瘍摘出のために声を失いました。
喉頭腫瘍とケロイドで原爆症認定申請をしましたが却下されました。
そして、集団訴訟に立ち上がりました。
平成18年5月12日、大阪地裁判決で認定相当と認められましたが、国は控訴。
地裁判決時には、病身ながらも厚労省(東京)に控訴断念の申し入れに行く元気がありました。
しかし、控訴審での2年間の審理のうちに、佐伯さんの体調は急激に悪化。
平成20年4月に認定基準が変わり、4月11日、ようやく佐伯さんに認定書が手渡されました。
しかし、そのとき佐伯さんは、病院の集中治療室、意識の薄れゆく状況でした。
私もその場面に立ち会いましたが、うれしさよりも、悲しみが大きかったです。
そして、認定書が渡された5日後の4月16日、佐伯さんは亡くなりました。
平成20年5月30日、大阪高裁判決でも佐伯さんは認定相当と認められました。
しかし、9名全員勝訴という喜びを共にすることはできませんでした。

佐伯さんの被爆体験をご紹介します。是非、全文を読んで下さい。
(陳述書より抜粋。全文は「続きを読む」から)

  突然、赤黄色の強烈な閃光が眼前を右から左へとザーッと突き抜けていきました。それは、当時写真のフラッシュとして使ったマグネシウムを焚いた時のような閃光でした。
  同時に、ものすごい熱さを感じました。
  慌てて逃げようとした瞬間、さらに、ものすごい轟音とともに、熱風が襲ってきました。
  2階建ての木造の校舎が、爆風で右から左へとなぎ倒されました。
  学校が爆撃を受けたのだ、と思いました。私は全身に大火傷を負っていましたが、そのことにも気づかず、無我夢中で、校舎の下敷きになった同級生を助け出し、避難場所である裏山(比治山)の暁部隊通信部へと避難しました。
  同級生も皆、私と同じ様に全身に大やけどを負い、皮膚がダラリと垂れ下がっていました。恐怖と混乱の中、皆は散り散りになってしまいました。
  私と一緒にいた同級生400名のうち4分の3が、この日から、学校が再開する10月までの間に亡くなりました。爆心地に近かった広島一中、二中の生徒は全滅でした。


 全文は↓(長いですが、お時間のあるときにゆっくり読んでみて下さい。)
2009.06.25 Thu l 徒然なる思い l コメント (3) トラックバック (0) l top
6月15日に行われた横浜地裁の原告側最終準備書面から「はじめに」を引用します。
この裁判の本質が凝縮されていますので、是非ご一読ください。

はじめに
 2004年9月30日に第1陣が提訴して以来、約5年の歳月を経て、漸く本訴は結審に至った。この間、原爆症認定却下処分の取消しを求める集団訴訟では、5つの高裁判決と13の地裁判決の言い渡しがあり、そのすべてにおいて被告国は敗訴している。実に被告国の18連敗である。
 被告国は、これだけの司法判断を受けながら、このように連戦連敗を重ねながら、全面的な解決を求める原告被爆者らの声を徹頭徹尾無視し、いたずらに上訴を重ね、その上訴においても次々と敗訴するという愚を犯し続けてきた。その結果、全国の集団訴訟において、実に68名が提訴後に命を落としている。本件訴訟における原告○○もここに含まれている。勇気を振り絞って国を相手に提訴しながら、その結末をみることなく亡くなっていった原告の無念さはいかほどのものがあろうか。こうした被告国の対応は、もはや犯罪的であるといっても決して言い過ぎではない。


2009.06.16 Tue l 徒然なる思い l コメント (1) トラックバック (0) l top
岡千尋です。

6月1日、2日公害総行動に参加しました。
原爆症訴訟の原告さんたちが呼びかけしているのも聞きました。
すべての原告さんが、私のおばあちゃんやおじいちゃんに思えて(祖父は被爆していませんが。)、
胸が熱くなり、涙も出てきました。
心から声援を送りました。

広島で育つとよくわかるのですが、被爆した人が被爆体験を話すことはとても大変なことです。
私の高校時代の先生は、顔にケロイドが残っていて、その先生が被爆したであろうことはみんなわかっているのに、その先生は、一度も被爆体験を語りませんでした。
けれども、その先生が退任する日、終業式の壇上で、初めて被爆体験を語っていました。

祖母を早く亡くし、祖母から被爆体験を聞いたことのない私にとっては、初めて身近な人の被爆体験を聞き、その経験の重さをかみしめました。

原告さんの訴えを聞くとき、その先生のことも強く思い出します。
ただ、残念なことが一つ。原告さんに声をかけたかったけれど、かけれられませんでした。
「がんばってください」と言うより「がんばりましょう」と言った方がいいかな。
けど、原告さんに胸張って「がんばりましょう」と言えるほど、がんばれるのかな。
とかいろいろ考えてしまい、結局自分から話しかける勇気もなく、もじもじして、そのまま帰ってきてしまったことが今も心残りです。

なかなか参加できず申し訳ない気持ちと、もっと参加したいけど身動きの取れない残念さを感じています。
本当に心から応援していますし、私もがんばりたいと思います。
2009.06.11 Thu l 徒然なる思い l コメント (1) トラックバック (0) l top
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